きばっど 主人公は君だ R3.4.2

 「自己を見つめる力」について考えてみたい。自己をどう見るかでその人の生き方も変わる。自分とは何かは哲学的な問いのようであるが、その問いを発することに大きな意味がある。自分がよくわからないのでは、なかなか夢の実現に踏み出すこともできない。つまり、現在の位置がわかってこそ夢までの距離もわかる。人は「比べること」を通して自分と目標との距離を理解することができる。自分はどこにいるのかは、他人や過去の自分と比べたりして、把握しようとする。これらをすべて「自己を見つめる」行為としてとらえたい。過去の自分から考えてみると、何か一つでも変われば、どれだけ成長したかを感じることができるはずだ。

 しかし、日常の生活の中ではなかなか自分が見えない。つまり、見失っていることも多い。ひどい時は、目的をすっかり忘れてしまう。「喝」という言葉は自分を見つめるスイッチを入れる言葉である。同じ効果のある言葉として、「主人公」の声掛けをしたい。自分が主人公だと考えて、「私は~」「僕は~」と第1人称を意識できるかという話だ。人生は、簡単に言うと、僕や私の物語である。すべてにおいて主体は自分である。他人のドラマに友情出演しているのではない。自分が関係しないで物事は進まない。だから、「主人公は君」である。

 小さいころ、夕ご飯を食べておなかいっぱいになり…、気が付くとふとんの中にぬくぬくと寝ていた。机の上が散れていてもいつのまにか整理されていた。今考えると、母が運び、母が片づけたのだろう。今はふとんに寝かされることも机の上がかたづくこともない。当たり前といえば、当たり前である。何一つ、自動的に、片付くことはない。僕が関わらないと身の回りはいっこうに変わらないし、話はまったく進まない。主人公たるものはぼ-っと生きていてはいけない。水谷豊のドラマの主題歌、「人生紙芝居」では、「そして、だれもが主人公」と歌う場面があった。当たり前だと思っていたが、そう言わないとわからない場面がある。人は毎日の生活に流されて自分の立場を忘れてしまう。 昔話を一人称で書くと実におもしろい。国語の時間では視点を変えて物語を書き直すことがある。視点が変わると物語が変わる。「主人公」の掛け声は、一人称の視点を忘れてはならないということだ。どんな小さなことも自分でやらない限り終わらない。「自分のことにしなさい」という話だ。人には責任があるし、仕事から逃げてはいけない。他人事にしてよい仕事はできない。今の自分に納得できているかを問いかけるべきだ。その意味では自分を見失うことのないように、「主人公」と問いかけたい。自分を意識すると、取組を深めたり、やる気を出したりが可能になる。名前を呼ばれると、人は生き返ることがあるらしい。危ない場面では「呼びかけてください」とお医者さんから言われる。呼びかけにはまちがなく効果がある。「主人公は君だ」の呼びかけを続けたい。

きばっど 縦割り無言作業 R3.4.6

 作業は無言でするがよい。作業はみんなでするがよい。みんなでするなら先輩後輩でするがよい。育英館の伝統である縦割りの作業は、お互いが切磋琢磨する「いもこじ」とよばれる形そのものだ。作業は心を磨く行為でもある。

 「清掃の十徳」の話や掃除で悟りを開く話など、作業が人間形成に与える影響は計り知れない。シュリハンドクというお釈迦様の弟子は、他の者に比べると特段優れたものはなかった。それを知っていたお釈迦様は彼にひたすら掃除をすることを行とするように語った。作業をよくよく考えてみると、単調であるが奥が深い。なにしろ、きれいにするにはその場所がどうあることが一番よいのかを考えるし、どんな道具でどれくらいやれるのかも考える。それから彼はいかにきれいに掃除をするかをひたすら追求した。そして、悟りを開いた

 作業には心を清める効果がある。手が汚れると心はきれいになる。きれいにしたいと思う気持ちが手を動かし、チリを集め、汚い所をふき取る。そうすると、手も雑巾も汚れる。もちろん、雑巾はきれいに洗えば問題はない。作業の時間が進めば、進むほど、心はきれいにしたいと思う。熱心に取り組むので手もずいぶんと汚れるに違いない。ここをこうしたい、あそこもこうしたいと無心にそれだけを追求すれば、雑念は入らず、収集して悟りも開けそうだ。

 この作業を伝統にしている学校は多い。ただし、作業の仕方を教える学校は少ない。家の掃除は掃除機が主流で、学校はほうきである。家にはルンバもいる。もちろん、玄関掃除に、校長室、多目的室に音楽室とシュリハンドクではないが、場所によって用具もいろいろだ。だから、シユリハンドク並みにがんばれば、まちがいなく、お掃除のプロにはなれるだろう。生徒たちで話し合って作業の仕方を作り、今日の作業の手順を確認しあう。その流れをくりかえし、月一程度で評価して改善すれば、作業のレベルはめきめき上がるに違いない。 外国では清掃をなりわいにする人がいることから、学校の掃除はない国もある。日本は違う。日本文化は自己完結型である。自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければならない。サッカ-のサポ-タ-が応援の場所をきれいに片づけて去る姿が取り上げられた。自分たちが応援した場所は自分たちで片づける。これが日本人の当たり前である。しかし、日本人は他人のところまでは片づけない。だれも見ていなければ、ここで終わりだ。ところが、他人の目を気にする文化なので、報道されるとまわりまでも片付ける。そう考えると、同じ片づける行為でも場所によってちがう気持ちでかたづけている。日本人の清掃にむける思いを考えると、半端ないことに気付く。永平寺の階段はよい例だ。僧たちの何百年にもわたる拭き掃除は、堅い杉板の階段さえも見た目にわかるように中央がへこんでいる。掃除への思いがものの形までも変えてしまっている。縦割り無言作業は、立派な修行である。

きばっど プログラミング今昔 R3.3.29

小学校ではプログラミング学習が行われていると話に聞いているが、なんぞやと本を読み始めた。石戸奈々子先生が説明するというマンガである。ざっと言うと、「仕事をどう進めていくかを考える」訓練を小学校から始めるという話だ。昔、年寄りから「だんどり」を言われた。それと同じだと勝手に理解した。

具体的には、プログラムで三角形や正方形をどう描くかという話だ。10㎝の正方形なら、まず、直線を10㎝引いて、引き終えたところで左へ90度曲がり、さらに10㎝進んで、今度も左へ90度曲がり…と命令すればできる。曲がりは左を右に変えてもできそうだ。この応用で多角形も書けるはずだ。

昔、コンピュ-タがゲ-ム機に毛がはえたようなころ、「タ-トル」という言語?があった。これからのコンピ-タ教育の共通語と言われ、教育現場で大きな話題になった。まず、画面の上に点滅する亀(のような)さんが出てくる。これに命令を与えると動く。そのころのBASICとかいう言語では、画面上でものを動かすのは大変な作業だった。ゲ-ムはみんなマシン語で書かれていた。

さて、亀さんには、確かgo(2、3)とか、turn rightと書いて命令していた。何しろこのタ-トルを動かす前に、プログラムをカセットで転送して起動していた。意欲維持が至難の業だった。それでも☆を書けたと小躍りした。目も腰も大丈夫で、☆を1つ書くのに一晩寝なくても平気な35年昔の話だ。これが、色鮮やかなテントウムシやねこになり、日本語の命令カ-ドを画面上で並べるプログラミング。その動きはなめらかだ。スマホでも学べるし、お手軽、お気楽に学ぶことができる意欲もなくならない。30年の月日を感じる。

今、コンピーュタがあらゆる機器に組み込まれ、このようなプログラムで動いている。しかし、基本はこのお絵かきにある。このような考え方が身につけば、仕事のだんどりをきちんと考えられる力にもつながる。この「だんどり」を、科学、技術、工学、人文科学、芸術、デザイン、数学というSTEAMの視点で考えられるようにしたいのか。中学・高校では問題解決型学習をプログラミングの発展ととらえてよいのか。そして、文理の壁をこえた思考力を練る探究学習へとつながるでよいのだろう。しばらくは研究してみたい。

論理的思考力を身につけた若者を育てたいがみんなの願いだ。若者には今までのまちがいを訂正し、これからの判断を間違わないでほしい。小論文は感情論や思い込みで書いてはいけない。事故や事件を防ぐには、すぐ厳罰を…と書くのはダメ解答で、それを引き起こす仕組の改善をとりあげて書くのが正解だ。つまり、改善できるものを問題と設定するべきだ。世の中の失策はこの論理的思考のなさに起因する。つまり、だんどり力のなさだ。35年前、みんなおもしろいゲ-ムを作り、一攫千金をねらった。今思うと、思考力のある人間を作る方が先だった。新しいプログラミング教育に今度こそその夢を託したい。

きばっど トランスレイト R3.3.26

「天の時 地の利 人の和」という言葉を今風にトランスレイト(翻訳)してみた。まず、「天の時」は「タイミング」という感じでどうだろうか。昔、ウンチャンナンチャンのテレビ番組で出演メンバ-で構成されたグル-プの歌唱対決があり、「ブラックビスケット」という名前をつけたグル-プが歌った。とにかく「タイミングこそが物事を決めるのに大事だ」とよくわかる歌詞だった。

 次に「地の利」の話だ。孫氏の兵法に「地」についていろいろと出てくる。「どんな所に陣を構えるとよいか」や「こんな土地に軍隊を進めたら気をつけろ」とあり、「死地」だの「窮地」だの物騒な名前で解説されている。中国では土地に関することを扱う話は多い。幸福を招く風水という学問まであるから、「地の利」についてのこだわりは半端ない。どうトランスレイトするか、難しいが、「バランス」という言葉を考えてみたい。職員の男女の比率とか、交渉で相手の要求をどこまで飲むかのバランス感覚はリーダ-には不可欠の要素である。「調整する」と縁語的に意味を広げると、その利点、欠点を知った上で、「活かす」という発想とも似通う。ちょうどよい所を考えることがよく、勝ちすぎても負けすぎてもいけない。「勝負は負けなければよい」でバランスはとれていくようだ。

最期に「人の和」であるが、これは「ハーモニ-」である。十七憲法の「和をもって尊し」にある発想は協力や共働である。前の2つを欠いても「人の和」は絶対に欠いてはならないと書かれている。ワンチ-ムとなったラグビ-や伝説の東洋の魔女とか、古今東西、この人の和が起こす奇跡には驚かされる。聖徳太子の憲法は理念的な側面が強いとかと言われるが、ここまでくると人生哲学だし、よくぞ憲法の一文にされたと感動する。

トランスレイトすると具体がみえる。他の言語を学ぶポイントはここにあるのだろう。言語の違いは考え方や見方の違いである。翻訳してみると、同じ部分もわかるが、違いも鮮明になる。価値観はもちろん、思考のパタ-ンが違うことも見えてくる。見ず知らずの人とつながるには、まず、考え方の違いが判ることである。違いがわかると、何を説明するべきかがわかるので、相手とつながる手立てが生まれる。トランスレイトはそんな訓練をしていることになる。

「チコちゃんに叱られる」では、多様な言語が存在する一つの説としてこの「考え方の違い」が紹介された。それは「価値あるものがそれぞれの土地で違うから」というものだった。実におもしろい説である。農耕民族であると、稲作に関する自然現象をどう呼ぶかの語彙は当然増える。また、海に囲まれて漁を捕れば、同じ魚なのに成長の過程で呼び分ける「出世魚」なんて言葉が出てくる。ブリ、サワラと呼び分けて、おいしくいただくことになる。これらを価値ある食べ物としていたからである。「言葉が文化である」という話はこういう辿り方をしても、なるほどとうなずける。

きばっど つながりとル-ル R3.3.17

「縦の糸はあなた、横の糸はわたし 織りなす糸は…」と歌われている「糸」さて、あなたと私は価値観や生活経験がかなり違うはずだが、簡単に織りなすことができるのだろうか?そして、織りなすためには何が必要なのだろうか。

 学級経営は「ル-ル」と「つながり」で言われることが多い。これは学校経営でも同じで、校長はル-ルとつながりで、学校を作り上げあげなければならない。命令系統は縦でなくては混乱するし、ル-ルが人それぞれの都合の良い解釈でも困る。ルールはだれが考えても客観性があり、納得できるものでありたい。しかし、横糸に当たる人間同士のつながりはル-ル以上に大切にしないといけない。一日の大半を過ごす学校という生活空間で、生徒であれ、教師であれ、だれの世話にもならず自分一人だけ生きていくことはありえない。

 「糸」は、友人の結婚式のために作られたと聞くと、納得できる。この主題は価値観が違う二人が協力すると、作り上げられる物に包容力が宿るという意味ととらえられる。互いのル-ルを尊重し、守り、相手を思いやるというつながりをもてば、すばらしい家庭になると考えられる。だから、そこにいるだけではダメで、「それなりの努力しない」といけないのである。たとえ、どんなにロマンチックにスタ-トしても、お互いの価値観を理解しようと努力しなければ継続は難しい。協力というより、もう一歩進んで作り上げるイメ-ジだ。お手本はないが、二人の努力があればきっとすばらしい家庭ができるだろう。だからこそ「織りなす」を方法論としている。中島さんの結婚観と言ってもよい。

 学級や学校の話で「糸」をとりあげると、つながりをどう作り出すかだ。まずは課題とのつながりがないと意欲はわき出さない。自分のものと考えて、課題と対峙する。教師も共通基盤や課題解決を工夫する。そして、自分なりの考えをもてると、課題とのつながりができてくる。次に友人とのつながりだ。学びの楽しさは、友人との意見交流にある。人はいっしょに学ぶのがうれしい。社会生活が協働で成り立っているように…。最後に自分とのつながりである。ここでは学んだ意味、や価値を自覚するべきだ。例えると、織りなすものが人を温めたり、慰めたりできるに違いないというイメ-ジの共感である。    糸には「ル-ル」のイメ-ジもある。しつけ糸は、布を縫う際に仮にとめる役目がある。本縫いで着物が完成すれば、跡形もなく、抜き去られる。それは、人間をきちんと育てるイメ-ジの「躾」と同じで、幼くわからない時分にだけ必要なものだ。ル-ルがないと学校は維持できなくなる。その意味でも、よいものを織りなすためにはお互いル-ルを守った上で、新たなつながりを作り出す作業となるだろう。今までの織物よりも素晴らしいものを作るにはどうするのかという問いの継続だ。答えは分かっている。当たり前だが、この2つは絶対に手を抜かないことだ。

きばっど 「建学の精神」を考える3つの言葉 R3.3.12

1 よき人たれ  Be good man

クラ-ク博士は初めて札幌を訪れた時に、当時の札幌農学校の校則の提出を求め、それを睨み「これは全部廃止する」と宣言した。それを聞いた当時の北海道開拓長官の黒田清輝は激怒し、博士と対峙して、説明を求めた。博士は「校則は一つでよい。それは、『ビー・ジェントルマン』(紳士たれ)である。」と述べた。それを聞いた長官は真っ赤になっていた顔を笑顔に変え、「わかりました。それで行きましょう」と答えた。クラーク博士は赴任の挨拶の中で「ジェントルマンというのは、まず定められた規則を厳しく守ることが必要だ。自分の良心に従って行動することだ。そのためには自分の良心を育成しなければならない。誰にも恥じないような良心を一人一人が持ちなさい。」と述べた。そして、「これは、一人の人間が社会の中で自立した存在として生きていく基本なのです」と付け加えた。「道義に徹する」とは、この言葉と同じである。「人としてよき人」で日々の生活を送りたいものだ。「こうありたい」と努力なしにはなかなかできないこともいろいろとあるが、けっして難しくはない。

2 他の人のために For others

「自分のために努力するのは当たり前、他の人のためにできて一人前。」育英館のメンバ-は自分の知りうる仲間だとすれば、やる気も出るし、がんばれる。さて、この仲間のためにだけで良いのだろうか。「未来を守る」という意味で、もっと他の人も意識したい。これから出会う人も意識したい。「どうすればこの地球を未来に残していけるのだろうか」と、そんな考えも必要だろう。

ナカドチェス市長の歓迎セレモニ-挨拶で、「これから会う未来の友人のために」という印象的な言葉があった。他のためにつくす姿勢として大いに参考したい。「まだ見ぬ人にまで…」と考えると、「公共物を大切に」から始まり、「食品ロスを減らす」まで、おろそかにできないことは数多くある。「実利を図る」人になるなら、ここまで考えて行動できる人をめざしてみよう。

3 為すべき仕事を愛して Love my work 「人は与えられた為すべき仕事を果たすために生まれた。」とよく言われる。それは天命とか天職というものだ。その仕事が簡単にわかり、やれるのであればよいのだが、わからないことが多い。それなら、今、自分に任された仕事には精一杯取り組みたい。仕事の出来は心の持ち方で良くも悪くもなるから不思議だ。だから、笑顔で精一杯、仕事には取り組もう。「頼み事は試されごと」は仕事に対する姿勢を考えさせる言葉である。仕事はよい意味で期待をかけられて頼まれるもの、だからこそ、期待をよりよく裏切る取組をしよう。まずは、「全集中で心をこめる」から始めよう。「勤労を愛する」なら、どんな仕事にも愛情を注げる。それだけで、どこにいても、頼られる人になれるに違いない。

きばっど 感情や心の循環型社会 R3.3.9

コロナのおかけで見えないものが見えるようになった。テレビでよく取り上げられる飲食業界の話は実に興味深い。コロナ渦でいろいろな食材のだぶつきが問題となっている。何気なく食べるものには多くの人の手がかかっていることはみんなご存じだ。しかし、今回は実感した人も多かったはずだ。

例年並の需要があると考えて生産したものの、コロナのあおりで食堂、飲み屋、ホテルなどが閉まり、消費はみるみる滞ってしまう。苦労して生産されたものは行き場を失う。時間が経つと、ものを運ぶ人の流れまでもが止まり、流通しないという悪影響が出てくる。結果、ものがない、必要なときに買えないでは、消費者も買い控えとなり、全体的にものがだぶつく。この代謝の悪い状態が続くと、生産者は守りに入る。生産の調整に入ってしまう。こう考えると、食べ物一つにしてもコロナ後に元にもどるまではかなり時間がかかるだろう。

これまでは、こんなことは見えなかったし、真剣にも考えなかった。今までの世界がよかったのかというと、生産したものをすべて消費したわけでない。ふりかえると、廃棄率は半端なかったはずである。政府広報のテレビCMではないが、おむすび1億個を廃棄していた。これでよかったはずがない。国民がもっともったいない精神を発揮すべきである。コロナ後の社会こそはリサイクルやリユ-スという循環型の社会にしたい。生産したものは確実に消費する。生産したものの行き先を考える。これらを早急に確立すべきである。無駄なものを作らない。作ったものは最後まで使う。コロナのおかけで学んだことだ。

 守りの城として知られた熊本城は、壁や畳の下に籠城したら食べられるような素材を活用した。非常時にはまず「食」である。昔の人の知恵に習い、地震や津波への備えと同じように、リサイクル型の社会を形成しておけばこれからの災害に耐えられる。もう一つは心のリサイクルである。人を助けるというつながりをリサイクルしたい。よく考えると「恩送り」である。災害で助けてもらった地域が、ボランティアを送るように協力や共同の場づくりを進めたい。どこのだれかがどこかのだれかを助けられるような仕組みを、「復興税」といわずに、暖かい心のまま届けられたらこんなすばらしいことはない。

感情や心のリサイクルである。恩送りや縁育てを実践して循環させることだ。作り出した輪は消えることがない。そして、多くの人に分け与えられるのも特徴だ。「幸せのバケツ」という絵本はわかりやすくその社会を説明している。 まずは行動しよう。消費期限が迫り、割り引かれているものをコンビニで見つけたら、積極的に購入してその日のうちに食べよう。ペットボトルは確実にリサイクルしよう。小さな行動だが、これがもったいない行動のポイントである。ミスやロスならいいが、レスになるとこまる。みんなで心のある行動をこころがけたい。

きばっど 褒め名人になろう R3.3.3

「褒めて伸ばす」という言葉があるが、名教師と言われる人はとにかく褒め方が上手である。えびの国際高等学校で長年校長された馬籠先生の校長室だよりに書かれた「褒め方6箇条」をもとに、褒め技を研究してみたい。

1 何かにつけて人を褒めよ。 相手の前向きな生き方を褒め、発想の妙を褒め、手柄を褒め称える。どんな些細なことであれ、人を褒める材料を見つけ出すこと

2 生徒、教職員の名前を覚えて、それをしょっちゅう口にする。言われた相手はやる気が格段に違ってくる

3 誰かを褒めるときは公衆の面前で褒めることを鉄則にする。他人が褒められているのを見ると「次は私も」という気にさせられる。

4 人を批判することはよい結果を生まない。失敗をした人間をとがめるのでなく、うまくできた人間を褒めるべきだ。そうすれば、失敗した人間も自分の非に気づく。

5 落胆して傷ついている時こそ、その人を褒める、気落ちしている生徒や職員がいたら見つけ出し、もう一度希望を与えてやる必要がある。

6 人を褒めるには誠実さが欠かせない。心底から相手を称える気持ちがあれば、いくら褒めても褒めすぎにならない。だが、うわべだけの誉め言葉は必ず相手に見破られてしまう。                   (一部引用)

褒めることの難しさにもふれた素晴らしい1~6である。今はやりの表現なら「愛の呼吸 ほめの型 6タイプ」である。2に書かれてあることは「個人的にほめる」である。他の人でなく、あなたを褒めていると意識させるために「名前を呼んで褒める」である。6は褒め名人になる肝の部分だろう。これこそがほめの型の必殺技、「誠実さを出す」である。

1は「よいとこ探し」であり、加点評価である。こういう先生や上司だと人は安心できる。この褒め方は周りから、往々にして甘いと言われることもある。しかし、人を育てるには、「叱り飛ばす」、「俺が鍛えた」よりこのほうがずっとよい。3の褒め方は、「教師は五者たれ」で取り上げられる「役者」の世界だ。褒め方にも計算が必要と言う話である。さりげなくやれるなら一流の役者だ。4は静かにならない学級とか、やる気のない学級を活性化するときに使う手法でもある。ただし、生徒の雰囲気をよく見てやらないと空回りすることもある。学級にある力関係を把握した上で、うまく利用することだ。 やり抜く力の育成を考えると、興味・関心をもつ導入部分は「褒める」に限る。ただし、本人が真剣にやり出したら、厳しさも必要だ。身につくまで継続してがんばらせたい。「初めちょろちょろ、中ぱっぱ、赤子泣くともフタとるな」の炊飯のコツは、「褒める」の位置づけを明確にしている。「褒める」は、導入に限り、本物とするには「ぱっぱ」や「フタをとらない」という我慢や厳しい指導も必要だ。褒め名人は厳しさも必要なのは間違いない 。

きばっど レジリエンス R3.2.25

この言葉の意味は、困難な状況から立ち直ること、形が変わってしまったものを元通りにすることである。この言葉は昨年、次のような記事で有名になった。宇宙飛行士の野口聡一さん(55)が10月31日に国際宇宙ステーションに向かうのを前に記者会見し、搭乗する機体に「レジリエンス」と名付けたことを明らかにした。「困難から回復する力」等の意味があり、新型コロナウイルスで苦しむ世界が元に戻るための力になりたいとの思いを込め、搭乗員全員で相談して決めたという話だった。

 何を元通りにしたいのか、何を回復させたいのか。考えてみると、コロナのおかげで、人と簡単に会えなくなった。心の距離が本当にわからなくなった。少なくともこの部分だけは元通りにしたい。行事でも、今まで通用していたことができなくなった。「時間が長くなるので必要最低限とする」を理由に、感謝のことばも言わなくて良いとされた。儀式の中の来賓あいさつは本当にいらないのだろうか。無用の用の値踏みをしないままに、すべてが省略された。体験的な行事が減った。経験値の少ない世代が誕生することになる。

 今年はあちこちで新一年生パニックが起こりそうだ。津波的な被害を受けると、学校が崩壊する。高さは10メ-トルになるのか、それ以上なのかはわからないが、「体験不足からわからない、知らない」の津波には、それぞれで連携して受け入れ準備を整えたい。この世代の関わる結果に今後も大きく影響するだろう。因があり、縁があり、果があるという生成の仕組みで、因となる出会いが極端に制限され、当然、育てるべき縁も減少した。結果が変わるはずだ。その結果が原因となり、次が始まるとすれば、さらに結果は違ってくる。

 よい因を作り出すのに貢献できるのは多様性である。強靱性、復活力があれば、レジリエンスできる。このレジリエンスは物理学で使われた言葉でもある。ぱんぱんになった風船を押すと、その部分はへこむが、その部分を押し返して、もとに戻そうとする力が働く。この押し返す力、回復しようとする力のイメ-ジである。一見、因がなくなって見えるが、逆になくなることが因になっているようだ。コロナ禍中、行事や学校生活を成し遂げた経験にこの力を感じる。学校、保護者、生徒、旅行業者の連携があり、無事に成し遂げられた研修旅行、部活動の遠征である。そこにはしなやかに対応する力を感じる。

現在、世界のだれしもが苦境にあることは変わりない。だからこそ、それぞれで知恵と工夫を出し合って、生きていく。回復する力は同じようで違う。回復する力には新しい可能性があってよい。押し返すだけでなく、新要素のある、押し返す力になってほしい。経験値さえ補えれば、可能性を抑える要素はない。

きばっど 郵便局での発見 R3.2.20

みなさんは切手のデザインがおもしろいのにお気づきだろうか。印刷技術の格段の進歩は実におもしろい切手を作り出している。絵本、食材、マンガ、観光場所などきりがない。「ム-ミン」はもちろん絵本「金魚逃げた」まで本当に楽しい切手がそろっている。有名なアニメとのコラボは何も郵便局でなく、マクドナルドやロ-ソン、シマムラと企業名も次々に出てくる。一つのものでなく、複数がミックスされたおもしろさがある。これを見ていると、共通テストに出ていた問題にあるミックスやコラボにまで考えがたどり着く。その教科単体の発想で解決できない、解決しにくい出題の存在を感じる。その意味では、今回の共通テスト攻略にはかなり感度のよいアンテナの必要性を感じてしまう。

社会にあった「天橋立」はブラタモリの正月特集で取り上げられていた。「観光地としての天の橋立を訪問するのに便利である」と、「古代の海上輸送を中心とした物流や漁業で必要な港に近い」は、時代による必要性の変化である。過去の中心地は、国分寺の跡もある北側(橋立の根?)である。ところが、京都からの観光客を考えて作られた駅は南側(橋立の先端)である。駅から歩いて橋立まで行く。橋立に立ちたいので途中に橋もかけられる。設問の中にあった「観光を考える」は、現在の観光立国、日本にはタイムリ-な発問である。

国語の問題は妖怪に関する考え方の変遷を縦糸に、人間との距離感、あるいは人間という存在を横糸に書かれた随筆が出題された。ゲゲゲの鬼太郎や妖怪ウオッチなどに出てくる妖怪は、新しいとらえの妖怪である。身近になりすぎて、かわいい。ポケモンもだが、これらは人間化していく者なのかもしれない。その意味では妖怪よりも人間が怖い。いつ人間でなくなるのだろうか。だれにもわからないから怖い。もう、すでになくなくっているのかもしれない。 国語の「孟子」はマンガでもよく見る一節である。「おや、あれっ」と思ったら、情報ソ-スにとらわれず、マイ知識に変換できる柔軟さが大切である。課題意識をもち、生活していると、かなり取得することができる。つまり、役立つ知識獲得のチャンスは、今も昔も日常にある。朝ドラも、大河も、周辺知識があれば、本題に重ねて見れるとその分おもしろさは増す。料理を食べるのも、その制作過程や素材の知識があると味も違うようだ。食リポのうまさは食べた料理の数に比例して当然だ。食を楽しむと集めた知識の総量分はうまさに変換されると推測できる。さて、朝ドラのちょっちゃんはオロナイン軟膏の宣伝看板で見た浪花千栄子さんである。また、大河の「麒麟が来る」には、安土城の雰囲気を出すために240畳といわれた畳の間もセットされた。天皇が月見と称して光秀と語る場面には、月を映す小道具として「角盥(つのだらい)」が準備されていた。これらのトリビアを知ると、本編が何倍にも楽しめるから不思議だ。