きばっど   後の先(ほめるとは)          2019.10.17

きばっど   後の先(ほめるとは)          2019.10.17

「褒めて伸ばす」という言葉があります。「大人だって褒めてほしいのです。」と言う人を見ると、褒められているのに気づかないのか、工夫が必要だと思い当たります。しかし、上手に褒めると伸びるのであって、なんでも褒めればよいということではありません。褒めるためには相手を知ることから始まります。つまり、相手の心の動きを読まなければ、上手に褒めることはできないのです。

剣道では相手の心を読んで攻撃することを「先々の先」(せんせんのせん)とか、「先の先」(せんのせん)と云います。どちらも相手の行動、表情から細かく心の動きを読んで仕掛ける技のことです。(ネットから引用した概要です)

まず、「先」とは、相手の機先を制するという意味です。つまり、動作の起こりを打つという意味です。相手の動作をつぶさに見ている戦う剣道にふさわしい言葉です。具体的には、「先の先」は、こちらの機先を制しようとする相手の心の起こりを打つことです。(現象面では、こちらの出端を狙っている相手に攻め入り、相手が「打とう」と思う瞬間を打ちます。打とうあるいは、受け止めようとして剣先が上がった瞬間に小手を押さえたり、胴を抜いたりします。)

次の「先々の先」はさらに高度になりますが、相手の心の動きを逃さない攻め技です。「先々の先」は、こちらの心の動きを捉えようとした相手の心の起こりを打つということです。(現象面では、攻め合いの中で相手の目の色の変化をとらえ、技を繰り出します。いつでも飛び出せるようにしながら、間合いをとったり、剣先を抑えたりして、目の色が変わる瞬間、自分の技を捨て身で繰り出します)有段者になると面をかぶるに関係なく、相手の表情が分かるのです。

剣道の技にはないのですが、「褒める」には、「後の先」もあり得そうです。相手がほめてほしいと思う機先に応えるわけです。つまり、頼んだ仕事が終わった後に相手の心を読み、褒めてあげる。具体的には、成し遂げた仕事の何がよくて何が足りなかったのかを明確にし、よい点を褒めるのです。これだと相手の心を満足させる褒め方になると思います。「後の先」です。相手の心の動きや目の色の変化で気持ちを読んで褒めれば、褒めことばの技、「後の先」や「後々の先」を達成できるかもしれません。

褒めることも攻めることと同じくらい相手を知ることが大切です。その意味では「先」の教えは有効です。ただほめられるより、褒めてほしい時に、具体的に評価した上で褒めてもらうのが最高でしょう。生徒を活かす評価のできる教師とは、生徒の具体的な姿を認めて、伸ばすように褒められる教師です。日常から生徒の動きをしっかりと見て、褒めてほしいと思うタイミングをとらえておくことが大切です。近頃はやりの「ほめ検定」では「あなたの思いつく褒めことばを50個書き出しなさい」が問題です。さて、何個書けますか。言えますか。

きばっど        朝ドラと大河           2019.10.25

きばっど        朝ドラと大河           2019.10.25

NHKの朝ドラは歌謡曲と同じで、ある時代を思い出すのに都合がよい。今日のスタ-トを「もう朝ドラだ」の感覚でとらえている人も多い。平成から令和にかわる朝ドラは「なつぞら」であった。北海道開拓の1世、戦争孤児の「なつ」、テレビアニメの創世という素材を実にうまく料理して楽しませてくれた。

また、NHKも記念番組的な力の入れようで、朝ドラ主演の名優を多数出演させた。まるで1番から9番までイチロ-に打たせるような見せ場だらけのぜいたく三昧の時間だった。どこを見ても主役だらけの朝ドラだった。

戦災孤児の「なつ」は北海道に引き取られ、開拓一世の老人泰樹と会う。多くの人に愛されながら酪農一家で育つ「なつ」は、次第に、アニメに興味をもつようになる。酪農家になるはずで通う農業高校で、初めて演劇と出会う。それがきっかけとなり、創作する楽しさに目覚めた「なつ」は、アニメ-タ-を志す。「なつ」と同じように、戦争で生き別れた兄妹の自分の人生を切り拓く姿を描いていく。なかなか知り得ないテレビアニメ創世記の人間模様を取り上げ、北海道を開拓した人々との重ね合わせていく筋書きは実に見事だ。

北海道で酪農をやることの困難さはなかなか伝わるものではない。修学旅行で生徒がファ-ムスティした農家を訪ねてみて、生き物を飼う大変さをしみじみと思った。その上、冬の寒さのあるこの地で酪農をするのはまさに戦いである。開拓一世の老人が「金をもうけるのでなく、牛といっしょに生きる」「どこにもいかん。この土地に俺はしみこんでいる」と語る言葉は実に重い。北海道に行ってみると、その自然の雄大さと生きる人々の営みに深く感動してしまう。

テレビドラマを見る楽しみは、どんな俳優さんに人気が出るかである。そこには、時代の要請やいろいろな要素がからみ、主役でない脇役こそキ-マンとなるようだ。開拓者1世を演じた草刈さんは大河で真田昌幸を好演した。高畑さんとの夫婦役も絶妙だった。今回の朝ドラにも1世の友人同士の二人が貢献したことは言うまでもない。ここでも主役のわからないドラマだった。

一方「大河」の方だが、戦国や幕末に生き生きと動き回る人間を語る話は楽しい。時代は、主人公に会った人や知る人がいなくなるころがちょうどよい。そう考えると、明治、大正、昭和では、物語になりきらない。

今回の「いだてん」は、日本へのオリンピック誘致をどう実現したかという話だ。大河好きにはたまらない。個人的にはこれまでの中で一番のできだと思う。視聴率は気にしないで、「日本に来る」の意義を考えさせればよい。思えば、1964年のオリンピックもすばらしかった。今回もそれに負けず劣らず、すばらしいと期待は高まる。オリンピック招致に命をかける田畑を演じた阿部さんはすばらしかった。令和元年の「大河」としての役割を十分果たした最高の作品だと思う。

きばっど     記号化の意味するもの         2019.10.10

きばっど     記号化の意味するもの         2019.10.10

各学校は新しい教育のキ-ワ-ドへ進路をむけて大きく舵をきっていきます。国際バカロレア、スマ-ト社会対応、SSHなどがあたかも大航海時代にみんながめざした新大陸のようです。新大陸を発見した人々のその後をご存じの通り、上陸して何があったのか。歴史はくりかえすでしょうか。そう考えると、新大陸への上陸前にやらなくてはいけないことがあるような気がします。

その一として、多様性に寛容であることです。新大陸では当たり前の価値判断が通用しないを教えることが必要です。日本人のよさでも悪さでもある「黙っていてもわかる」、「世間にもうしわけない」という価値を理解しない人々がそこにいるのです。さらに「つまらないものですが」とことわり、価値あるものを渡したり、「ぜひお立ち寄りください」と言いながら、わざわざ立ち寄ることのない、忖度文化はどこにも存在しません。だから、相手の言動をそのまま受け止め、軽く口約束したことも実行されないと責任をとことん追及されます。新大陸へ上陸すればきっとこんな人々の出会いが起こります。まず、新しい多様性との折り合いをどうつけるかを学ばなくてはならないのです。

次に、非言語化、記号化への努力です。人間が認識する幾何学紋様は、○、△、□という実にシンプルな形でできています。社会の事象を認識する手立てとして実に有効です。紙媒体の発達で、曲線図形も実に美しく描かれ、その幅は広がっています。過去には、記録媒体として「石」的な素材も多く使われたことを考えると、いつの時代も文字よりも図形提示が効果的だったようです。言語でなく、直接、思考に働く情報提示が新大陸には多く存在しそうです。

現在では、SDGsも記号化され、目標としての共通化が世界中で図られています。この活用方法を参考に、今後は記号を伝達手段としてより重要視するべきだと思います。行動をイメ-ジしやすい記号がより多くの場面で取り上げられることでしょう。新しい授業では、思考ツ-ルを自己追究と相互練り上げで視覚化する手立てとして活用し、発信の過程で理解できる記号化に取り組むことが求められるでしょう。東京オリンピックでは世界共通となる記号化への取組が進められていると聞きます。共通化された目標と、それを実現する手立ての記号を、大きさや色で表現すれば、だれでも理解する達成率や行動パタ-ンの提示となるでしょう。具体例として、デジタル時計に出てくるマンフェィス(正式名称はわからないので)は「爽快、快、不快」を表しています。これで言語をこえてだれもが現状の把握ができます。これをもっと進めて、「2度節電すると、地球にやさしい行為をした世界○○番目の人になれました」という具合に記号をつくればよいのです。世界と自分のつながりを意識させることがこれからの時代には不可欠です。そして、どんな行動を起こすべきか、SDGs の美しい一覧表をぜひご覧ください。

きばっど          自ら学ぶ          2019.10.3

きばっど          自ら学ぶ          2019.10.3

バブリ-ダンスで一世を風靡した大阪の登美丘高校、その指導者アカネ先生がテレビに出ていた。さて、全国一にした秘密はなんだろう。「英才は自らを育てる」を育英館のウリにしようと考えているのに、なかなかその指導法を確立するまでに至らない。特に、「自ら学ぶ」は口でいうほど簡単ではない。

世界一受けたい授業のスタッフは実にうまく、先生の指導法を聞き出していた。ダンスの振り付けを生徒に教えて、「はい15分でものにして…」と時間を区切ってしまう。15分経過すると有無を言わさず、練習スタ-ト、当然できない生徒が続出。そこで、「はいだめ もう一度」である。できないことを一人一人にしっかりとわからせて、「はい、10分で仕上げて…」と放り出す。時間が区切られているから、できない生徒はできないところをメンバ-のだれかれかまわず、一斉に聞き、習う。真剣そのものだ。「はい、どうぞ」と、きっかり10分で練習再開である。できるまでやる。一回でもできたら終わり、「よくできたね」と褒める。褒めることが少ないが、それでも、生徒は実に意欲的に取り組む。本人曰く「9割ダメで、1割ホメです」と本人は言う。褒めて育てるは大切であるが、その割合はそこにいる生徒を見て決めるのだろう。

最初の15分の自己追究も真剣だが、相互に聞き合う時間は半端ない。自分でどこが足りないかを考えさせているから、自分の欠点がわかる。そこをできるようになるために何が必要かをわかるから、それを準備するのに真剣になる。準備できたらできるまで何度も繰り返す。生徒が自ら学ぶ方式が自然とできあがっている。単純だが、実に真理をつかんだ指導だ。

作品になりかかると、最後の仕上げは「面白く」である。アカネ先生が「面白くないなあ」とダメ出しする。突き放された生徒たちは考えに考え抜いて面白さを作り出す。否定しないでやらせて、最後にそこを先生は認める。褒める。生徒の発想を大事にしている。「生徒を一人の大人として扱う」の言葉は深い。作品が自分たちのものになれば、よくしようと自然と思いが働く。部員のほとんどが高校まではダンス未経験であるのに、自分たちのものになり、その思いで高まるから全国へ通用する作品へと仕上がっていく。

大多数のなれないチ-ムの指導者や生徒たちに足りない部分はどこなのか。やはり、「自分化」ではないだろうか。なりたい自分になるためにこれは必要だと求めてほしい。勉強を自分のものととらえられたら、「わからなければ聞く」の行動になる。自分のことと考えれば、聞かずにはおけない。

そして、自ら学ぶは自ら「さらに」学ぶとなり、その途中で人にも教えるとなる。チ-ムで作り上げる良さは、自分だけの高まりでなくまわりも高めるである。いっしょに高まると楽しくなる。「自ら学ぶ」はこんな楽しさの裏付けが必要だ。

きばっど    出藍の誉れ               2019.9.25

きばっど    出藍の誉れ               2019.9.25

このことわざは荀子の次の漢文から由来するものです。

「君子曰、學不可以已。青取之於藍、而青於藍、冰水爲之、而寒於水。」

訳は、「君子が言われた。学問は永久に継続して修めなければならないものだ。青い色は藍という草から取ってできたものだが、それはそのもとである藍よりもさらに青い。氷は水からできるが、水よりもさらに冷たい。」です。「青取之於藍、而青於藍」という部分は、門人が師よりも一歩進んだ修養ができていることをたとえたものです。作者である荀子は、終生学び続けることによってすぐれた人間を目指すことや、また自分勝手に学ぶのではなく信頼できる師のもとで学ぶことが重要だと説いています。だから、人間の生まれながらの本質を「悪」として、後天的に続ける努力、すなわち生涯学び続けることによって、「善」に向かい、すぐれた人間になることを勧めたのです。この漢文に由来することわざから派生した「出藍の誉れ」の意味は、もちろん「青は藍より出でて藍より青し」です。生まれたものが、そのもとのものよりすぐれていることから、「弟子がその師よりもすぐれていること」をいいます。師を超えるすぐれた弟子を称える時などに使われる言葉です。

まえおきが長くなりましたが、これこそが教育の完成形だと考えられます。優れた教師は生徒を自分よりも高められるのです。師をこえるためには、師のすべてを理解した上で、弟子は自分なりの工夫や努力をする必要があります。そして、師は弟子が自分をこえることを容認し、その成長をたたえることがポイントです。教育は可能性を伸ばす営みです。そのためには既存の枠組にとらわれず、自分をデザインしていける人間に成長させることを目指さなければなりません。新しい時代を切り拓く発展や進化が認められてこそ、教育です。

「スタ-ウォ-ズ」が好きなのは「師と弟子の物語」であることです。一人の師は一人の弟子しか教えないという厳しいジュダイの掟の存在、考えてみると、究極の小人数教育であり、これこそが本物の教育なのです。この教育には、知識だけでなく、生き方や人としてのあり方が付随されています。知恵のある悪魔を育ててはいけないことが基本にあるのです。戦いに出かける場面では「フォ-スとともにあらん」を必ず確かめ合います。勝負の勝ち負けよりも正しく生きることを確認し合っているように見えます。ライトセ-バ-でのチャンバラだけでなく、東洋の思想を作品が包含しているのでしょう。生涯学び続けることを説いた荀子がこの悪と善の戦いのドラマを見てどんな感想をもつでしょうか。登場人物はそれぞれのステ-ジで悩み、苦しみながらも師をこえて成長していきます。教師が、卒業生に会うと楽しいのは「こえられた」と感じる瞬間のせいかもしれません。まさに出藍の誉れの世界です。

きばっど    めざせカリスマ教師           2019.9.13

きばっど    めざせカリスマ教師           2019.9.13

カリスマ先生に共通する話をメモした紙を見つけた。全国の音楽コンク-ル連覇校の顧問の先生の話だった。メモなので詳細がわからなくなっているが、羅列してみると、次の①から⑥だった。

  • 各係と100個の相談をする。 現在ある課題を意識して存在感を示す
  • あいさつに必ず一言付け加える どの生徒にも見ているよをアピ-ルする。
  • 「学ぶ」のモデルは教師である。先生自ら学ぶ姿勢をもつ。
  •  楽器演奏の前に、歌を歌って感じをつかませる。多様な方法で能力開発。
  •  ペップト-クで、ネガディブからポジテイブに気持ちをもたせる。
  •  「先に生まれただけの僕」という気持ちで生徒に接する。

この後に「授業をかえる」のメモがある。①から⑥についていろいろと考えたメモだ。生徒に考えさせる場を与える。そのために知識を整理する場の設定が必要だ。「相互に教えさせる」ことが大事である。わかった子とまだわからない子を授業の中でからめる。「ヒントを出す→考え方を教える→自分で答えてみる→考え方からたどって、答え合わせをする」の順で授業を整理していく。よく見るクイズ番組の手法とかなり似ているのに驚く。

「先に生まれただけの僕」とはどういうことか。生徒よりも多くの思考パタ-ンを知っている。課題解決へのアプロ-チが多彩である。たとえば、助け合い学習にも多くのハタ-ンを考えられる。・方法を教え合う・方程式の解法提示・比較する・批判的な思考という具合だ。そう言っても、教師としては伝える力は不可欠だ。受け手と投げ手という視点で考えると、相手に対しての思いやりコントロ-ルで、見えるよう、聞こえるように伝える。UDでだれでもどこでもわかるように伝える。受け止めやすいように反応をよくみて、力をかげんすることだ。補助的な手段も準備したい。そして、投げたボ-ルが帰ってくるとき、見えないものを見て、聞こえないものを聞きながらキャッチしていく。カリスマ教師にはオ-ケストラの指揮者なみに全部の音が聞こえるのだろう。多くの曲を聴き、曲調をつかんでいることが大事なのだろう。そのためにも、機会を見つけて、生徒に声をかけ、その反応をかねてから見ておくのは教師の大事なトレ-ニングとして必要だ。元の音を知らずに変化する音は分からない。

「今までと違う生徒が学校に増えていきますよ。先生方も変わらないとだめですよ」との保護者の声を聞く度に、「先生だって変わる努力していますよ」と言いたい。どの生徒にも新しい時代に活躍できる人間になってほしいと願っているのだ。そのためにも、いろんな音も聞き逃さないで、声かけのできるカリスマ教師をめざしていきたい。

きばっど        ささやいてご           2019.9.10

きばっど        ささやいてご           2019.9.10

新しい社会の到来が話題になっている。今から30年ほど前、ノストラダムス予言の世紀末予言が一世を風靡した。「宇宙からやってきた大王に地球がほろぼされる」という話だ。今度は新しい社会に滅ぼされそうだ。離島や僻地に荷物を届けるのにドロ-ンならひとつ飛びである。目的地さえ言えば自動運転でどこまででも連れて行ってくれる車もある。マックやケンタッキ-ではロボが対応してくれる。これらすべてがささやいて5.0だ。ついていけるのか?

何回聞いてもこう聞こえるし、発音すると変な顔をされるし、「ササヤイテ ゴ-」でよいという気になってきた。こう聞こえる私は、これからの社会は大きな声で言えない社会なのかと勘ぐってしまう。教科書を立て、先生の視線をブロックしてSFを読みまくった中・高校時代、あのころは見果てぬ夢があった。その話の中に出てくる物が次々と実現していく。ちなみにケ-タイは、昭和40年代のアニメにも登場しているし、機械が人間を支配する「タ-ミネ-タ-」の世界も一部現実になった。衝撃は大きく、いつかやってくる時代に警戒しようと思った。あれからわずか40年あまり、AIの進化は著しく、世界と簡単につながるケ-タイやIOTになれている自分が不思議だ。

瞬間移動、ワ-プ航法、惑星間横断チュ-ブ、宇宙エレベ-タ-と、いろいろな言葉がSFには出てきた。インタ-ネットで世界がつながると、知識の拡大と生産が半端ないスピ-ドで進行する。立ち止まれない所に来たことを感じる。最先端の技術が人間にどんな影響を及ぼすかをしっかりと検証しないで、流行させ、世界に広げることはパンドラの箱を次々と開けることと同じだ。年代や性差を無視した技術は、心の発達段階に大きな支障を生み出さないという保証は全くない。

「ささやいてご」はできるだけおおきな声でみんなに注意してから「ご-」してほしい。ケ-タイやゲ-ム機の普及が社会不適応や依存など、多くの犠牲者を出していることも考えたい。その世界に行ってしまった生徒を救いたくても難しい。何百時間もかけておもしろさを作り出すゲ-ムクリエイタ-に、教師が束になってかかっても勝てるはずがない。引き戻す戦に負ける度に、心を病んだ生徒に何もできなかった無力感だけが残る。生徒指導の問題でなく、病気だと考えて一刻もはやい診断と家族を含めた全員の協力が必要だ。ゲ-ムに対する態度がおかしいと感じたら、早めに受診してほしい。のめり込むまで悪化したら確実に本人の社会性を奪ってしまう。ゲ-ムの中でしか生きられない。「ささやいてご」で起きることを予測すると、さらに抜け出せない世界が準備される。話題になっているVRはさらにたちが悪い。なにしろ「仮想現実」と訳されるくらいだ。もう現実とかわらない。迷子の呼び出しも届かないだろう。簡単に探せない。

きばっど  希望のかけらを集めて             2019.9.18

きばっど  希望のかけらを集めて             2019.9.18

朝が明けるまで泣きはらした夜も…で始まる「希望のかけら」を覚えていますか。ある世代から上には人気のある今井美樹さんのヒット曲です。あの福山さんも出ていたトレンディドラマの主題歌でした。そのフレ-ズと思いがけなく出会いました。第37回の体育祭のパンフレットの表紙を見たときです。手のひらにすくいあげているものが希望のかけらに見えたのです。若い作者はこの歌を知るはずもありません。

その表紙は両方の手で石か何かをすくいあげています。その手の中に花が一輪、凜と立ち上がっています。すくい上げた石の中に竹刀や優勝カップがあるのは体育祭を意識しているのでしょう。バトンパスの手は送り手と渡し手が描かれ、受け渡しの緊迫感を感じます。純白の鳥は友情の証、手首にしっかりと結ばれたリボンは各団の団結をこめて描かれています。仲間と集った母校育英館への愛情も校章として置かれています。

石のように見える一粒一粒は3年間の思い出、希望のかけらです。手のひらからあふれ出しそうな希望のかけらは、体育祭を経験して積み上げられていくのでしょう。そして、美しい花を支え、栄養となるものに違いありません。手のひらにまで根はのびています。3年間の年月はしっかりと根をはる花を育てました。どこにいこうとこの花はその場所で咲き誇ることでしょう。

この歌詞は「愛する人や友達が励ましてくれる 最後は自分で決めるもの」と人生の生き方を指向します。花が実をつければ、手のひらいっぱいにすくいあげたものをこぼすときが来るのかもしれません。どこにいこうと、同じように希望のかけらを拾い集めて、新しい自分を育てて、人は生きていくのだと思います。最後に自分が決めるのは手を空にするかどうかの決断なのかもしれません。希望のかけらはどこにでもあります。そう信じられるような気がします。

話は変わりますが、教育再生実行会議の第11次の提言にある「飛躍知を生み出すイノベ-タ-」は漢文の素養のあった湯川秀樹や多趣味で知られたロケットの糸川博士など、文系理系の枠をはみ出した発想や創造のできる人材をイメ-ジさせます。心理学や脳科学という「人」を知り、科学する分野では、歌詞の中にあるこのような心の動きさえも考えてみることが大切だと思います。単純ですが、人と人が同調してしまうのはなぜかを科学するわけです。

答えの一つとして、人間の考えることは同じだからです。赤ん坊の成長を観察して、それを教育に結びつけられないかと考えていくと、不思議とあの「エ-ミ-ル」と似た発想になります。昔から使われる表現ですが、「はえば立て、立てば歩けの親心」はこの名著にもあらわれる発達課題をずばりと言い当てた言葉です。そう考えると、私達の日常には希望のかけらも飛躍知のかけらもころがっているようです。

きばっど      今年の夏もジブリ          2019.9.3

きばっど      今年の夏もジブリ          2019.9.3

夏休みの後半には、テレビで子供向けのアニメが放映される。今年もジブリの作品が満載だ。朝の「なつぞら」でアニメ-タ-地位向上に奔走する若者が宮崎さんのモデルらしいと聞けばなおさら見たくなる。

今回は、いてもたってもいられないくらい、「ジブリ」を見たくなって、5月の連休に福岡まで出かけた。「みずほ」という新幹線に乗ると、熊本の次は福岡だった。駅弁人気1番という黒豚弁当を味わうひまもないくらい速い。

さて、今回のジブリ展は福岡市立美術館である。皆さんもご存じのように三鷹の森ジブリ美術館は要予約であり、なかなかそこまでは行けない。そこで、福岡ならGOという気持ちだった。7時2分に鹿児島中央を出発すれば、百道にある美術館開館は9時30分で、これなら楽勝だと考えた。ところが、8時18分博多着なのに、駅の迷路で迷い、地下鉄を使って西新まで移動して、どうにか8時50分には到着した。地元人はなれているのだろうが、駅前から美術館までの距離がわからない。とりあえず、バスに乗って福岡タワ-をめざす。タワ-に到着したのが9時15分、開館時間まで10分くらいはある。歩き始めると近い。高級マンションが林立する中を200メ-トルくらい歩くと美術館の敷地である。入口から人人人人の列で、展示物までの距離がかなり遠い。

ジブリ展の魅力は一枚の原画だった。宮崎駿監督がこんなものを作りたいという原画を描く。それがいろいろなものを生み出すから不思議だ。もちろん話のあらすじや人物、景色という絵が無数に描かれている。映画になると、インパクトのある宣伝文句も必要だ。それが次々に生み出されて形になっていく。そんな制作過程のメモやらスケッチが展示してある。台本もはんぱない。そしてなにより計画表に見とれる。この計画表も芸術だ。工程表とか進行表とかいうものだろう。スタッフの仕事が配置され、書き込みがされて、色とりどりの一枚の絵に見える。この映画の制作に携わった人々の姿が浮かんでくるようだ。トップの仕事は、はじまりにたった一枚の絵が描けるかどうかなのだろう。

オ-ムと呼ばれる虫の模型も展示してあった。風の谷のナウシカに出てくる空想の蟲である。原爆を使い、地球をほとんど住めなくした人間の過ちから生まれた。原作では戦車よりも大きく、何万匹も集まって行動するため、一度暴走したらだれもとめられないという設定であった。模型は縦が3メ-トル、長さは5メ-トルもある。堅い甲羅に覆われた質感もよく出ていた。腐海と呼ばれる汚染された土地の奇抜な植物や他の蟲といっしょに展示されていた。アニメの世界になじんでいるせいか。本物と感じてしまう。

現実よりも現実に近い世界を追求しようとするアニメは新しい考え方を模索する必要性を突きつける。どんな未来がやってくるにしろ、それはすべて私たちが作り出すものである責任は重い。

きばっど        夏の終わりに          2019.8.27

きばっど        夏の終わりに          2019.8.27

今年の夏の総括をしてみたい。前半戦は初任校の同窓会 中盤も一番長くいた学校の同窓会 後半は最後の学校の先生方の同窓会です。なぜか同窓会にあけくれています。「先生!若い」と言われると調子に乗ってさらに飲んでしまいました。「先生といつまでも呼ばれる重さをかみしめると簡単に同窓会にいけない」と先輩がつぶやいていたのをしみじみと思い出します。

45歳ぐらいになると会社社長という重要な役職も多い。母親になった者は二通りだ。先発組はすでに子育て終了、後発はまだまだこれからという。中盤の同窓会の話だ。幹事会だというので顔を出すと、話が盛り上がり、4時間もおしゃべり三昧だ。人間関係、会社の話、同級生のうわさにととどまるところを知らない。あちこちから先生と呼ばれるし、こちらも話に加わる。30年の年月は今の姿形に感じるが、まったく気にならないのが同窓会マジックだ。

「同級生とはなんぞや」の答えは出す前に、だんだんと自分の同窓会の年代はあがり、高校の同窓会案内が届くが出席の意欲はない。大学の同窓会なんて規模の大きさもだが、当時でさえ、結束力の弱い国語科で、卒業してから会ってない顔ぶれだ。そこでとんと話にもならない。書道部はその点、鉄の結束で何かあれば集合なのが面白い。同年齢の部はとりあえず終了だろうか。

ここで、育英館の同窓会の話題に乱入させてもらうと、実に先生とのつきあいが「恋い」存在だ。漢字の間違いでなく、この言葉でぴったり、校長としては、育英館という学校のためにはもう少し活躍してほしい。無理は言えないが

ここで考えてみると、学校は先生と生徒をつなぐ場でしかありえないのだろう。それが証拠に廃校してもその学校の同窓会はある。よくみれば、そこにあるのは生徒と先生のつながりだ。人と人が社会を形成するための場が学校なのだ。

同窓会で自分をふりかえる。生徒の瞳に映る自分はどうなのだろうか。中学生だったころの彼や彼女の瞳に映る姿と比べて変わったのだろうか。「先生変わらない」と言われる言葉は40になり、50になった彼ら自身の目に映る先生の姿は昔の溌剌とした先生と変わらないよと言われていると信じていたい。

野球、サッカ-で活躍したり、ボランティアや勉強に打ち込んだり、いろいろな生徒たちの活躍は育英館を場として活用した結果である。しかし、その心に残る大きな要素は先生方である。「育英館の先生」としていつまでも生徒たちから若い、変わらないといわれる溌剌さをもちつづけたいものだ。

私学フェアで「育英館は?」と名前を出して尋ねてくる方が増えたような気がする。知名度がアップしている。夏の終わりに定員を充足したリアルな夢もみた。結果がでるのは正月あけ、9月スタ-トの2学期は秋の陣の始まりだ。これからも先生と呼ばれる幸せをもとめ、顔と名前が出てくるまで募集をがんばりましょう。