常に英才たれ        山小屋に降る雨        2019.6.8

常に英才たれ        山小屋に降る雨        2019.6.8

いつのころかは忘れたが。地学か何かの水の循環の話の続きで聞いたと記憶している。若い時の勇気ある選択は人生後半に大きな成果をもたらすという内容だ。水の循環と関係づけて話された理科の先生はすごい。その話はこうだ。ロッキ-山脈の頂上付近に登山者のための山小屋がある。何年も前からそこにあるのかさだかでない。その山小屋に降る雨を見ていてこう思ったと話は続く。

雨を見るこの人はわずか数センチの違いが実に大きな違いとなるのではないだろうかと思い当たる。左の屋根に落ちる雨粒はその屋根から左の屋根づたいに地面へと落ちていく。そのまま地下の覆水へしみこむ。そして、アメリカ大陸の内部の川へと流れていく。右も同じように滴り、地下へ、そして、サンフランシコのある西海岸の一つの川の水となる。実に壮大な話だ。

自分がこの雨粒だとしたら、若い日に自分が経験した選択に思い至ることがある。勇気を出して選択した進路が今の自分を作っている。あのとき、あの高校を選んだことが、あたかもこの雨粒のように大きなる違いになった。数センチの違いが数万キロの差になっていると考えたという話である。思うところ、有名な哲学者の随想をわれわれ高校生に紹介されたのだろう。

結論を急ごう。自分の決断が正しかった。自分は人と違う景色をたくさん見ることができた。それは自分の選択である。違う景色を見たことは自分の人間としての幅を広げたり、自己肯定感や自立心を育ててくれたと話は終わる。

もう一つ似たような話をしよう。ここに高価な宝石がある。仕事についたばかりの若い人は買いたくても買えないものだ。そこで2つの選択がある。ロ-ンを使ってでも買うという選択、今はお金がないので買わないという選択だ。ここでムリして買ってみよう。自分の給料の数カ月分くらいの買い物だ。大事にしないわけがない。当然、若い人はその宝石にふさわしい人になろうと努力することになる。服装や言葉遣いにも気を使い、自分を磨こうと努力もする。その人の生き方が変われば、どれほど高価な宝石よりもすばらしい。宝石への思いがその人を成長させてふさわしい人に育ててくれる。

これらの話は「未来への投資を大切にする」という教訓だ。一つのことに3年打ち込めば、それなりの成果がある。さらに打ち込めば、成果はもちろん、自分自身が変わったことがわかる。10年もすれば他の人に教えられるようなその道のプロになれる。まずは3年である。変われると信じてがんばれば本当に変わるから人は不思議だ。有名な詩の「僕の前に道はできる」はまんざらうそではない。1年生は育英館に来て2か月、変わった景色を見ただろうか。先輩たちと同じように、その景色を見ることで、人は変わっていける、成長していけることを信じてほしい。急には変われなくても君は必ず変わっていける。

常に英才たれ なぜ学ぶも大切だが、どう学ぶかも大切   2019.6.17

常に英才たれ なぜ学ぶも大切だが、どう学ぶかも大切   2019.6.17

化学の授業で「液体の沸点が気圧に関係する」という話があった。ここで「つなげる」を持ち出すと、遠足でいった川内原発の冷却水の話とつながる。原子炉容器内では気圧があげてあるので水は沸騰しない。それで効率よく冷却できるという部分である。

新しい社会の到来への準備として、すべての学習知をどうつなげるかが、今後の日本の教育では大きな課題となる。単線的な学びではとうていこれからの社会を生きることはできない。時には複合的、横断的、立体的な学びを試行することが大切だ。

化学の授業参観で「加圧水」が頭をよぎった話である。気圧つながりで悪いが、よく天気が悪くなると頭が痛いというのは、気圧変化を敏感に感じる内耳による自律神経の高ぶりから起こる。お天気痛を防止するには、この原理を応用して内耳に刺激を与えないことだ。耳栓一つで改善できる。純粋の水よりも材料の入った味噌汁が熱いのも沸点上昇を考えれば納得できる。理科のおもしろさは生活と結びつくから面白い。

じゃ数学はどうなるのかというと計算ほど明確に未来を予測できるものはない。預金の金利が低いと未来へ期待がもてなし、老後の資金2000万も数字としてインパクトが強い。身の回りの自然や生活を数字化できないかという話である。トンボやアメンボウの航跡をグラフ化しようと考えると、障害物を予知してどちらに進路を変更するかは、けっこう直線的な感じがする。Xの変域が決まれば、ある地点から変更点までのグラフは書けるし、そこから次の変更点までの軌跡も書けそうだ。個体の軌跡を数多く重ねていくと、ほぼ同じ飛び方をすることがわかる。これらの統計がとれると、変更点でまちぶせて、確保ということも可能である。同じように「チョウの飛ぶ道」も予想可能だそうだ。これも統計学のなせる技に違いない。チョウは日向と日陰の境を見つけて飛ぶらしい。そうなるとチョウを何度も観察する人は、結果として数学的な思考による発見と似たものを手にしていることになる。

これらはすべて人間の脳の働きによる。脳には文系理系はない。課題解決のために動いている。脳は抽象的な思考を得意とするので、肉体を離れて働くこともしばしばある。ある問題ができない判断すると体が動かない。見た目が少し不安定でぐらぐらするつりばしがある。渡らないといけないがこわい。こういう時、脳は否定の判断を下す。原則的に生命維持や痛い経験を優先する。ところが「安全渡れます」と書いた立て札があれば、躊躇なく渡ろうとする。立て札が読めなかったり、別の言語で書かれたらどうなのだろうか。脳を活性化するためには、まず「始めること」だ。「行動の中から知恵が出る」は脳の特性をうまく言い当てている。まずは動いてみよう。

きばっど     心ってどこに              2019.6.21

きばっど     心ってどこに              2019.6.21

絵本はいろいろなことを考えさせてくれる。幼い子でもわかるようにと書かれた本であるが、大人にもいろいろなことを教えてくれるから不思議だ。

「こころってどこにあるのでしょう?こんのひとみさん作」の言葉を羅列してみた。もちろん、挿絵や言葉があるのだが、語句(全部重要だが)を独断と偏見で好きなように抜き出してみた。以下本文である。(一部省略)

 

ほっぺたにある  まっかになる  好きな人に会うと

むねにある どきどきする

あたまにある かんがえるといたくなる

 

おなかにある  いたくなる いやなことがあると

しっぽにある うごく

みみにある てにある

 

あしにある

めにある なみだにある

くちにある こえにある

 

心って本当にすごい からだじゅうにある

うれしいことがあると からだじゅうの心がよろこんでいる

 

ことばだけで実に考えてもおもしろい。前の3行は自分のからだの中で反応する部分をとらえている。次の3行はかわいい動物の挿絵といっしょに書かれた部分である。その動物の様子を見ながら考えると、どこにあるかの話に不思議と納得がいく。おなかがたぬき、しっぽは犬、みみはうさぎ 小動物の手の絵、子供の足の絵と連なり、また、自分の体にもどっていく。

絵本だから絵がメッセ-ジの大きな割合を占めるのだが、このおなかにあるはたぬきでなく人間でもよく思い当たる。難しい説明だと自律神経や交感神経などの話になる。「心ってからだのあちこちにある」と思えるのはなんとなくわかる。体験的に理解できる。心がころころしてつかめないとか、心は変わりやすいとか、当たり前のことである。ただ、どこにあるのかなと考えて、「からだじゅうにある」というこの本の結論がおもしろい。心と体は違うようで同じ、うれしい時はからだじゅうでうれしいという感覚は子供だけのものだろうか。大人になっても小さな感動でもからだじゅうの心で喜びたいものだ。

きばっど   実習生を見ると思い出すこと        2019.6.14

きばっど   実習生を見ると思い出すこと        2019.6.14

学校の6月は実習の季節だ。教師の卵が大学から母校に実習にやってくる。何十年も前の話だが、授業を初めてやった時は黒板を背にする重さをひしひしと感じた。大学3年生の秋、わくわくどきどきで伊敷中に立った。国語の授業は指導の先生がいてそのとおりにやるものとばかり思っていた。

教科主任から指導教諭のケガで4週間の実習のうち、2週間は教材研究と聞かされた。ところが、先生の復帰がさらに遅れるという話になり、2週目からはいきなり授業をする羽目になった。家庭教師を経験しても40名に教えるのは素人である。教科主任も「まあ好きにやりなさい」というのどかな時代である。しかし、生徒はまってくれない。とにかくやらなければの実習だった。

そんな実習の中で試行錯誤して身につけたものがある。思い返しても面白い。その一つが「時計型の丸い指導案」である。けっこう汎用性があると思う。授業をうまくいかせる技として紹介しておきたい。まず、白い紙に円を描く。そして、授業の時間が10時30分から11時20分の50分だとすると、時計の長針を意識して、5分刻みで円周に印をつける。そして、30分のスタ-トから25分の終了を円周に書き込む。その時刻に発言する発問や板書する事項を書く。導入、展開、終末にかける時間配分がわかるように、円を分割する。この指導案なら、どんなに舞い上がっても時間を見失うことなく、授業を進められる。腕時計を外して指導案の中心におくとさらに見やすくなる。

次が「逆三角形に構造化された板書」である。板書計画は重要語句で絵を描くイメ-ジで作成する。重要語句を各頂点においた逆三角の図形を書く。これらの語句の間に関係する語句を配置して板書を詳しくしていく。板書する順番が大切なので左肩には番号を書く。だいたいのコンテを作成しておき、生徒の発表を優先して柔軟化に順番を入れ替える。さて、重要語句同士をいろいろな線で結んで図を完成させていく。できれば、完成の板書は円になるように、語句を取り上げ、配置していきたい。生徒に書かせてみるのもおもしろい。認識の深まりとなるように進めていくのに都合がよい板書だ。生徒の書き込みが自由に配置できるので、自己肯定感も高まる。

次は心構えになるが、「たった一つ教える」である。教材研究するとあれもこれもと教えたくなる。あれもこれもと授業でよくばると、あれもこれも身につかない。1時間に一つという気持ちで授業をしなさいという話である。たっぷり教材研究して、たった一つ教える。どんなに欲張っても教えても生徒が自分なりに理解したことだけしか残らない。

若い日の実習で気づかされたこれらには授業の本質があると今も思える。だから、教育実習のころには、生徒主体の授業はどうあるべきかとあのころにもどって考えてしまうのだろう。

きばっど      オンザスボット            2019.6.7

きばっど      オンザスボット            2019.6.7

日本語に訳すと、「時の人」という表現らしい。読んでそのまま、スポットライトをあてるということを考えてみたい。演劇の一場面でこの人物が中心ということはだれでもわかる。そこにわざわざスポットをあてるという考え方もあるだろう。主役だからこそスポットライトをどこからあてるのかと考えてはどうだろうか。どんな光にするかも考えてみよう。演劇の話ではあるが、授業に置き換えると、どれもが自分をブレゼンする能力の話になる。

顔を輝かせるために、表面に光を意識した加工がなされている阿弥陀如来の仏像があるという話に驚いた。神々しさを表す光が本体にさりげなく準備される。その技法を現代によみがえらせようと、ある仏師のチャレンジする姿をテレビが放映していた。この挑戦には頭が下がる思いだ。客観的に見る立場であるが、それがどれほど難しい技かも驚いた。その話は後に述べたい。昔の人はなんとうまくスポットをあてたのだろう。

画期的な光をデザインする考えがそこに存在している。仏像自体は金箔に覆われて光っているように見える。それだけではない。仏像の表面にほどこされたミリ単位の技に秘密がある。よほど注意深く見ないとわからない。それは放射線状に描かれた文様と亀の甲羅を模した文様の組み合わせからできている。お顔の下の衣紋(衣服のひだ)表面にびっしりとこの文様が描かれる。そこに光が存在する。わずかな室内の光があれば、この文様の作用でお顔が輝いてくる。主役に自然と光をあてていく。実によくできた仕組だ。

自分をプロデュ-スするにはスポットライトをどうあてるかが重要だ。それを考えるヒントになる。光はわずかなものを増大させる方法で確保するのがよい。教師が自分自身にスポットをあてる瞬間が授業では大事だ。今までの話合いから課題解決へ向けて高める技を身につけたいものだ。教師にスポットが当たる瞬間だ。強い光にならなくても、お顔が輝く阿弥陀様といっしょでそれ自体に輝く工夫があればよい。日頃から生徒たちとの信頼関係を築く努力をするなど、教師の人間性に他ならない。

光をデザインするのと自分をデザインするのは似ているようだ。授業の重要な場面で、教師が出てくる。そして、新しい展開が授業をゆさぶる。発見と驚きがある。その期待が学習をおもしろくする。教師は発問をして、生徒にスポットライトをあてる。そうしながら自分が輝く時を待つ。生徒たちから光が発せられる瞬間をまつ。教師からの光を待つのでなく、自分から輝きだしたらしめたものだ。

時の人も光がなくなると忘れ去られるが、先生は生徒の記憶の中で輝き続ける存在だ。やはりプレゼン力の違いなのだろうか。先生の輝きは‥

きばっど      スイッチの入れ方           2019.5.31

きばっど      スイッチの入れ方           2019.5.31

人間の成長は動物や植物の生長と少し違う。ある日突然やってくる。これを「実存の飛躍」と哲学用語では言うらしい。精神的な変化が外見にまでも及ぶのも人間の成長の特徴だ。自称歴史マニアでもある私が思いつくのは次の言葉だ。「男子三日会わざれば刮目して見よ」ということわざである。人の成長はいつ何時訪れ、変わっているのかわからない。そこで、3日会わないとずいぶん変わっているのでしっかり見なさいということだ。来年の大河ドラマ「麒麟が来た」の主人公明智光秀に関する評価だ。秀才の誉れ高い光秀をかわいがっていた斎藤道三はこの若者の短い期間での成長を見抜いてこうつぶやいた。深い。

ここまで話していると、医学界で言われるDNAスッイチに思い当たった。近頃、遺伝子治療などでよく話題になっている。このスッイチ次第で病気にかからない体になり、寿命が延びるらしい。可能性を現実にかえる夢のような話だ。あの火事場の馬鹿力だってこのスッイチonしたのではと思えてくるから、不思議だ。それではどうすればこのスッイチが入るのだろうか。やはり、外部からの強い働きかけは必要だろう。練習で体を鍛えるのはまさにこの部分だ。勉強だってやらないことには入らないだろう。つまり、質より量の部分が大きいと推測できる。努力にまさる天才はなしではなく、努力するとスッイチonになる。あるいはなりやすくなっていると考えてよい。

どのくらいでスイッチが入るのかを私なりに考えてみると、体の細胞が全部入れ替わるのが3ケ月、運動して筋肉がつくのもそれくらい。しかし、スイッチはもっと速く入る。個人差はあるが、勉強をがんばると早い教科は1月で成果が出てくる。成果が出ないからとあきらめてはいけない。3月がんばると体が変わっているのだ。当然、成果も出てくる。スッイチは間違いなく入っているので後は本人次第である。継続すれば、必ず成果はついてくる。

時間をかけるという勉強法は量の勉強法である。いくつもの教科を決められた時間内で終わらせるとなると質の勉強である。宿題は量の世界だが、予習は質の世界である。自由な時間で読者や趣味の音楽をしたいと考える人は「量より質」の勉強をやるべきである。最初から質の勉強はできるものではない。質を高めるためにもある程度の量をこなして、スイッチを入れておきたい。人間がこの地球で生き残り、文明を築いてこれたのは自分をデザインする力があったからだ。しかし、ある程度の時間は必要だ。そして、努力と創意工夫がなされて、自分が変わっていく。この過程や力を分析すれば、効率よく自分を変えていくことができるはずだ。

今までは心のスイッチオンと意欲面での話が多かったが、DNAスッイチを考えていくと体を動かすことから変わる過程もあるようだ。スイッチが入ると人は間違いなく変わっていく。

きばっど      SGWの思い出           2019.5.20

きばっど      SGWの思い出           2019.5.20

福岡県立美術館のディズニ-のア-カイブス展に感動した。ディズニ-ランドをつくる夢を実現したウオルトの人生をすべて保存してあるといっても過言でないすばらしいア-カイブス展だった。

さて、ミッキ-マウスの顔が変化していることをご存じだろうか。自分の思い出を少し語ると、東京ディズニ-ランドオ-プンの年に出かけた。お恥ずかしいが新婚旅行だ。その際のおみやげ袋にあるミッキ-とつい最近のミッキ-は顔がずいぶん違っている。この展覧会のポスタ-を見ると、ミッキ-の顔の変化を並べたものが掲載されている。キャラクタ-グッズもそのシルエットをデザインしたものだ。そして、展示会の最後のブ-スにはこれがお土産品として、それぞれの顔のミッキ-のぬいぐるみが並んでいる。顔の変化に驚くが、これだけ長い間、愛されたキャラだということがわかる。

「美女と野獣」、「アリスの不思議な世界」などの実写で使われた衣装や小道具が並べられている。考えてみると、50年ほど前に、白雪姫やシンデレラから、ピ-タ-パンやダンボまでアニメとして作成されている。実写化は夢の世界へもう一歩私たちを近づける試みかもしれない。この展覧会を見ているとそんな気がしてくる。アニメ制作の際に集められた資料やその過程で作られたものが実写化でも利用されている。

ウオルトの夢は世界中の子供たちに夢を届けること、そのために夢の世界が必要だった。大人も子供も楽しめる空間、ディズニ-ランドを作ることだった。その夢は実現した。現に日本の子供たちも彼の映画を楽しみ、キャラたちを友達のように慕っている。人生は楽しいことばかりではないが、笑顔になれる時間や空間があることがすごい。

展示品の中に3Dム-ビ-があった。立体画像のミッキ-が動くショ-トム-ビ-だ。動きがリアルでバラの花をもつミッキ-は生きているようだ。現状に甘んじることなく、次の夢に向かう姿勢を示しているようだ。この作品に魅了されながら、ウオルトの夢は今でも進行中であり、実現に向けてそれを支える数多くの人がいることを感じられる時間だった。

福岡の町に夏が近づく。川面を渡る風は実に心地よい。都会のビルに囲まれてひっそりと水鏡天神社がある。縁起の末尾に福岡の天神という繁華街の名前のもとと書いてある。讒言により配流された菅原道真公は川面を水鏡として映る自分の顔を見て嘆かれた、その地に建つ神社である。

ディズニ-ランドもいつかは、この天神様のように地名として残るのだろうか。一人の人間の思いが広がり、大きな夢を実現することを思うとき、希望や夢のある未来は愛される一匹のネズミに象徴されているのかもしれない。

 

きばっど    捨ててよいものとだめなもの        2019.5.15

きばっど    捨ててよいものとだめなもの        2019.5.15

断捨離ブ-ムは心の在り方生き方まで変えている。自分なりの生き方が今までの財産だとすれば、整理整頓を急ぐばかりになんでも捨てているのでと懸念される。喫緊の問題としてよく話題になる「実家問題」もこの延長線上だろう。年老いた親が実家の整理整頓ができないまま天国へ行くと、残された子供がそれを片付けねばならないという問題だ。自分でやるとなると確かに大変だ。本当に切実な問題だ。経験した人ならその大変さはわかるはずだ。遺産相続や財産問題までからめばもういいかげんにしてくれとなるのもわかる。

ところが、「子供に迷惑を残してもよいのではないのか」という視点で話をしたい。実家問題で私自身もあれこれと処分した。私の母は几帳面とは言えなかったが、家計簿兼日記(「主婦の友」かなにかの付録だろう)を処分するとき、手がとまった。それに書き綴られた一行の記録に涙が止まらなかった。必要な時にしか実家に寄り付かない息子たちへの心配やあれこれと予定を尋ねた内容がメモとして書かれていた。実家問題で業者に頼んで整理してもらえば、けっして出会うことのない宝物である。

断捨離のプロの片付ける話を聞けば、処理済みの書類は「まず捨て」が原則らしい。私流に言うと、書類の中に書き込みがあれば、ただの書類ではない。それはその時の自分である。毎年の学園グル-プ校の入学式に参加して、メモをする。感動や感じた思いがそこにある。結果捨てることになるのだろうが、その時にもう一度見直すぐらいの思いはあってよいのではないか。そこで躊躇して捨てられない自分を悪者にしてはいけない。断捨離万能はやはりおかしい。

「おむつをかえてくれてありがとう」なんていう赤ちゃんはいない。自分でおむつをかえてみて、初めて母の苦労がわかる。そう考えると、だれもがありがとうの前借をしている。前の人には恩をかえせないようだ。だから後の人に返す以外にない。断捨離ばかりやるとこの恩の連鎖さえ断ち切ってしまう。生き方は楽にならなくてよい。生き方は大変なのが当たり前だとわかってほしい。

断捨離とは逆行する話をしているのも自覚している。しかし、買ってしまったものは大事に使えばよいし、大切なものほど人にあげればよい。何一つあの世にもっていけないから、思い出といっしょにあげるものがあれば最高だ。そんな整理整頓を始められないかと考えながら片付かない言い訳にしている。

断捨離ができた人は何一つ後悔せずいけるのだろうか。思いが残らないのは悲しくないのだろうか。せめて自分の生き方やポリシ-だけは断捨離しないでほしい。心の中に生きるあなたを思い出すのはそこだから・・・、そこまで断捨離したら写真には何も残らない。がんこな人はがんこなままに、愉快な人は愉快なままに、そんな思い出を残すためにも断捨離万能にこだわらずに生きたい。

きばっど         山笑う             2019.5.01

きばっど         山笑う             2019.5.01

この時期の自然の緑には目を奪われる鮮やかさがある。桜の季節から1月もたつと緑の季節がやってくる。山をどのように描くかを表した言葉「山笑う」という春の季語が話題になった。

さて、この季語のイメ-ジは、 新しい草花が芽吹き、うららかな春の日が当たり、山全体にのどかで明るい感じが漂うである。

・故郷やどちらを見ても山笑ふ     正岡子規

夏の山には「山滴る」という季語が使われる。イメージすると、若葉は濃い緑へ変わり、その葉から水が滴るようなみずみずしさをもつ山が浮かぶ。清らかな流れや朝霧などは湿潤気候の日本ならではの山の様子といえるだろう。
・滴りのそばを歩むや鳳来寺      尾花ゆう花

「山粧う」は秋である。秋を歌う唱歌「もみじ」の「濃いも薄いも数ある中に松をいろどる楓や蔦は山のふもとの裾模樣」「波にゆられて はなれて寄って赤や黄色の色さまざまに水の上にも織る錦」は美しく彩られた山の様子を表していて、「山が化粧している」とうなづける。その理由を考えた次の句もなかなかです。・山の神来てゐるらしき山粧ふ     井上 雅

眠るように静まっている、もの寂しそうな冬の山の様子を表すのが、「山眠る」という季語です。冬の山の向こうに春の山の景色を想像している。寒いけれどなぜか温かい。そして、春の訪れを待ち望む次の句はいかがですか。

・日のさせばあたたかさうに山眠る   紺野いつみ

山や海という自然が変わらないのはある意味ありがたい。今回、「令和」の誕生で万葉集を読みたい、知りたい人が増えているらしい。日本人のル-ツを知り、国語の成り立ちにもふれることになるだろう。万葉集の時代を考えると、日本文化はかなりアジア寄りだった。明治になってから西洋に、そして、昭和はアメリカ信仰となる。日本文化は自然との共存が原則だ。自然をコントロ-ルしようという意識はない。自然を変えようとしてきたのはつい最近化のことだ。髪を金髪にし、カラ-コンタクトを入れ、英語を語っても、その精神構造はまだまだアジア系である。自然とのふれあいに感動するのに、なぜそう考えるかをわからない。これから日本をどうするのかを考えるには、今の日本人は何者なのかを議論すべきだ。とりあえず、新しいものを取り入れるときはどうなるかぐらいは考えてみよう。金儲けや便利さやカッコよさで取り入れると取り返しのつかないことになる。大量消費もけっこうだが、リサイクルができるものにしたい。こんな小さいな国の上で捨てる文化を謳歌すればたちまちゴミに埋まる。いつまでも「山笑う」と使える日本でありたい。「山嘆く」や「山泣く」が出てくるような文化を形成してはならない。自然を守るには、万葉の時代の心にヒントがあるようだ。

きばっど    あなたたがなくしたのはどの斧ですか    2019.4.23

きばっど    あなたたがなくしたのはどの斧ですか    2019.4.23

なぜ、池の中から出てきた神様は木こりに三つの斧をみせてこう聞いたのか。俗にいう選択肢の問題である。内容は、金、銀、鉄の斧だった。ところで、銀の斧という選択肢はないのだろうか。「銀の食器」というと、ジャンバルジャンではないが、つい盗んでしまう高級感もある。銀の素材だと、毒をもられた時色が変わるなど、金にはない特性もある。こちらも貴重な金属である。一番高価な「金」を導くための選択肢だと推測はできる。しかし、日本人には金か鉄かの選択でよさそうだ。童話だと馬鹿にしないで考えてみると、二者択一が日本文化の特徴で、多くから選ぶが世界標準なのかもしれないのでは?

昔話で悪いが、とかく、「よいか、悪いか」の話が多い。残酷な題名の「舌きりすずめ」の中で、おみやげにつづら(トランク)を選択させる場面がある。大きいのか小さいのかの二者択一である。こぶとりじいさんや花咲爺さんの話もよいと悪いである。小さいころから、よいか悪いかで割り切る構造になれているのかもしれない。世の中に出ると、よいか悪いかだけですまされない場面に遭遇する。世界標準と考えると、割り切れないが本当だろう。

文化の影響がいろいろなものに及ぶとすれば、二者択一では国際的なものを理解することは不可能である。少なくとも選択肢は3つ以上あるという感覚はもちたい。もともと、日本文化は許容性の高い文化である。言語にしても外国のよいものを取り入れ、自国化しながら使用してきた。四季の移り変わりがあり、水蒸気となじむ風景は、ぼんやりと霞む。そういうあいまいさを美としてうけとめる風土がある。自然的な要因から見える日本はかなり多様性の国である。それなのにこの二者択一的な発想はどうしたのだろう。

いろいろな宗教の存在を許してきたのに、廃仏毀釈やキリスト経弾圧が起こるのはなぜだろう。異文化理解を進めるダメにはこの許容性を前面に出し、狂信的な二者択一は遠慮したい。みんな違ってみんないいと寛大になるには努力を要するが、いいか、悪いかだけでなく、まあこの程度かの幅はもちたい。

万葉集の詞書から元号がつくられる時代である。異文化理解に寛大な心をもてるような時代にしてはどうだろうか。歌を手立てとして人と人とのつながり、集う営みが「歌垣(かがい)」と呼ばれ、そこで出会いがあり、愛が生まれた万葉の昔、そのいにしへに帰れとは言わないが、当時の人々のふところの深さや広さは見習いたい。その姿勢が世界の人々との調和には必要であろう。

池の中から現れる神様には本当に悪いが、斧の種類を増やしていただきたい。日本には3、5、7の数を好む文化もある。令和にかわる今年はぜひ5本は、おもちいただきたい。金銀銅アルミ鉄ではどうだろうか。それぞれの金属の特性を生かせば、木こりの副業が広がり、元手に事業を展開できそうである。異文化理解はあちこちにヒントがありそうだ。