きばっど 南溟館の展覧会 R3.1.28

美術館の企画展には突然行ってみたくなる。今回も新聞を見てそぞろ神がついたように枕崎に行ってしまった。スズキコ-ジさんの絵を見たくなった。枕崎駅の後方にある片平公園の高台に作られた美術館はユニークな形をした建物だった。眺めの良さから南溟(みなみのうみ)の名が与えられたのだろうと想像がつく。その中でスズキコージさんの大魔法画展があった。原色と不思議な構図は「リメンバ-ミ-」の映画の世界を思い出させた。死者の日を描いた映画と同じで、構図に出てくる人も魔物(たぶん)も造形や色彩は実に独特である。

作者の世界を理解しようとするのはなかなか難しい。絵本となった原画を見ながら驚きの連続である。絵本と言いながら、訴える力が半端ない。ぐいぐい心に迫る。抽象画ではない。心象画だと思う。感じるままを描く、心の中を描くという世界にふれたような気がする。心のありのままが描かれるので、感じさせる力があるのだろうか。広島の原爆ド-ムの由来を取り上げた「ドームがたり」はとても興味深かった。産業物産館として建てられ、活用されていた建物の擬人的視点から書かれている。彼は原爆によって自分の呼び名が無理やり変わった無念さを強く訴えている。彼なりに戦争が起こったことを考えている。平和な時代が続けば、そんな名前で呼ばれることはなかったという悔しさにあふれている。原爆ド-ムの語りを絵と文で紹介して、平和を願う気持ちに共感させている。証人が語るために説得力は半端ない。

帰りはマグロ公社によってみた。マグロのモニュメントが入口に飾られ、公社の存在は一目でわかる。象徴性の高い南溟館の空飛ぶ魚のモニュメントとは大違いだ。また、コ-ジの絵にはシロナガスの亡霊が漂うものもあった。同じ魚でもこんなに描き方が違う。考えてみると、同じ文章を読んでも感じ方が違う。それなのに、図や写真を見せて共通基盤を作ったつもりになるのはいかがなものか。教科書で教えるべきは共通した感じ方なのかもしれない。しかし、感じ方にもお国柄が出る。「スイミ-」の仲間は同じ大きさの小魚であるが、「大きなかぶ」はバラバラの力である。大きなかぶはロシアの童話であるように、マト-リシュカのように大から小の力を羅列している。しかし、どちらも協力という言葉でくくられるからおもしろい。

宗教画とも見える絵は、手を使って書かれる。大きいものなら畳5枚はあろうか。絵には悪魔や妖精(たぶんそうだろう)が多数描かれている。その間に存在する、いや、させられる人間の表情は実に多彩だ。絵の世界を支配するカオス。その中で人は生きなければならない。ある意味、人間を描く新しい試みである。心の中を説明することは難しい。それを絵にしてメッセ-ジを表出するすごみさえ感じる。美大不合格のまま、アルバイトをしながら自分を信じて絵を描き続けられたそのパワ-がすごい。

きばっど 漫画も昭和の文化 R3.1.21

なぜか、ポ-の一族の絵を見に行った。吸血鬼の話なのだが、萩尾 望都さんの手にかかると美しい漫画になる。思えば、漫画こそ昭和の文化といえる。エドガ-とアランという美少年は吸血鬼だから、死なない、年をとらないから、同じ姿でいろいろな時代に出現する。年表でいうと200年くらいである。二人を取り上げた短編、長編あわせて、数多くの作品が存在する。この漫画のファンは40代以上であるが、なかなかどうして時代をこえる魅力がある。

「鬼滅の刃」のヒットで漫画アニメがブ-ムである。なめらかな動きやカメラワ-クで見る人の心をつかんで離さない。ところが、このアニメには紙芝居的な要素がある。静止画に近い場面があちこちに存在する。余計なものを見せない工夫だ。多くの人が一斉にしゃべるという場面が少ない。必要な人に必要なだけ、しゃべらせてメッセ-ジを確実に伝える。初期のアニメは背景もなく、人物のみだった。しゃべらせることも一苦労だったに違いない。そんなレトロ感を鬼滅がもっているのが不思議だし、それも人気の秘密のような気がする。

鉄腕アトムと同じころ、エイトマンという漫画があった。東幸太郎という探偵が事件に巻き込まれて死に、サイボ-グとして復活する。体に原子力を作り出す装置を入れて、音速と同じ速さで走れるという設定である。このエイトマンの走りは今の子供に見せたらなんといわれるだろうか。上半身のポ-ズは固まったまま、走る足は目に留まらないので、直線が引かれている。それを補うかのように「走れエイトマン、風よりも速く…」とテ-マが流れる。その曲を聴くたびに、速く走る彼を目の前に見た気になった。そして、走った後には、必ず、原子力装置を冷却する必要性で彼はたばこを吸う。説明ではこのタバコは原子炉を冷却する薬剤となっていた。このかっこよい休憩を子供たちはタバコチョコでマネしたものだ。少年たちはタバコをふかすカッコよさを学んだ。

漫画の神様、手塚さんの遺伝子は数々の漫画家を生んだ、令和の「鬼滅の刃」も「鉄腕アトム」がなければ存在しなかった。漫画が生まれ、世界へと広まり、日本の文化の一つとなった。このことに昭和のすばらしさを主張したい。昭和は混とんとした時代であった。だからこそ、そこに多くの文化が生まれた。カオスには何かが生まれる可能性が高い。コロナの時代もその意味では実に可能性に満ち溢れた時代だ。よいとか、悪いとかの基準をこえる生き残るための知恵の結晶がいろいろと出てくる。漫画のヒットはレコ大や映画収入にも跳ね返っている。この時代をうまくとらえたプロデュ-スの成功例である。メディア同士のよさのミックス、つまりは、掛け算型の効果である。

そもそも道というのは歩く人が多くなれば道になる。はじめに何人をそこに歩かせられるかということが大切だといえる。魯迅の「故郷」の最期の一文の答えもここにあるようだ。

きばっど「鬼滅の刃」R3.1.18

コロナ時代になぜか「鬼滅の刃」というアニメが流行した。コンビニもどこもかしこもこのグッズがあふれ、いつのまにか完売した。ここまで流行する、その秘密を考えてみた。まずは、敵となる鬼がめちゃくちゃ強い。ふつうはヒ-ロ-が必ず勝つ構図で物語が進むので、結末は予想がつく。安心してみることができる。鬼を退治してめでたしめでたしである。ところが、このアニメの鬼はめっぽう強く、主人公たちは苦戦して、たまには負けて命も危ない。どうにか勝ったにしても相打ちに近いような勝ち方にしかならない。戦う度に満身創痍なのである。「強くならないといけない」という課題をいやでも意識させられる話の展開なのである。今までのアニメと確かに違う。

 主な登場人物の4名には共通点がある。竈門炭治郎(カマドタンジロウ) 、妹の竈門禰豆子(カマドネズコ) 、鬼滅隊の同期 -我妻善逸(アガツマゼンエツ)  -嘴平伊之助(ハシビライノスケ) とやっと読めそうな難しい漢字プラス濁音である。このネーミングセンスは抜群で、

子供から大人まで覚えさせてしまうところがすごい。読めそうで読めない漢字こそ、ロマンにあふれるのか、キラキラネ-ムばりで注意を引くのに十分である。

また、近頃のアニメには珍しい紙芝居的な要素をもつことに注目したい。見せるためにぎりぎりまで動きを削ぎ落とす。つまり、捨てる論理で描かれている技法がすごい。今までのアニメが背景や小道具を含めて詳細に描くという流れから逸脱している。別れ場面で、遠く去っていく人物の後ろ姿は静止画並みの少ない動きで描かれている。わずかに足が動き、そのまま背景の中に消えていく。その静止画と対比されるのが、戦闘場面である。鬼との闘いシ-ンはすごい。迫力満点である。カット数も半端ないが、視点変化が激しく、臨場感は半端ない。敵と味方と視点が入り乱れる。また、戦闘シ-ンの中にうまく、過去の思い出や幻想までが書き足されていく。情報としてはやや多すぎる感じがするが、ここも受ける材料になっている。鬼になる運命も解そこから放される安堵感までもが実にわかりやすく、盛り込まれている。鬼の運命に共感できる炭治郎には鬼を殺すというより、その運命から開放していくような感じさえある。妹が鬼になっていることで、彼には心から鬼をにくめないのではないだろうか。鬼を滅ぼしながら、同時に救おうとする構図がある。

次に漫画らしいかわいい描き方が随所に出てくる。あれほど勇敢に戦うヒ-ロ-たちの目が点になったりするのは笑えるし、かわいい。「柱」と呼ばれ近づきがたい凜々しいキャラが笑いを誘うような描き方に突然変わる。この変わり身のおもしろさも人気の秘密だと思う。この顔だけ見たら、残酷な戦闘シ-ンの中の主人公とは絶対に思えない。

日本のオニという概念は、「姿、形のない恐ろしいもの」である。それに漢字の「鬼」があてられた。心にすむオニとか、オニの面とか、人がそうなるのではないかという恐ろしさが言葉的に存在するのを感じる。もともと人だから、そんなオニを「殺す」でなく、「滅す」という願いのような気持ちがわかる。コロナのおかげでたくさんのオニが日本中にあふれている。炭治郎たちの出現が待たれる。コロナさえなければオニになることもなかったと考えると悲しい限りだ。

きばっど コロナくんさよなら R3.1.16

今年はコロナくんとつきあわないといけない一年だった。逃げようにも逃げ場がなく、正体がよくわからない彼につけねらわれた。3月の初対面では、その恐ろしさからすぐに休校になったり、卒業式には歌もなく、時間短縮と大騒ぎになった。そして、とうとう「来賓にもご遠慮いただき…」と来賓席もなくなった。年度が替わり、「三密を避ける」ように言われ、保護者のみの参列という入学式からスタートした。歓迎会はもちろん、密となる会は例外なくすべてなくなった。新入生がマスクをしているので、名前も覚えられない。どんな声かもわからない。5月の保護者のPTA総会までも紙面開催となった。生徒も保護者も覚えられない新学期だった。

 コロナくんはどこからともなくやってくるという話が広がった。遠足や修学旅行にバスで行くと危ないと言われ、中止や延期になった。日本中が毎日、王冠に似たコロナくんの映像を何度も見せられた。6月から7月にかけての対外試合や遠征、練習試合もなくなった。勉強も対面授業がだめで、オンラインやズ-ム授業というものが始まった。中国はじまり?のコロナくんは、1学期を中心に日本中に恐怖を植え付けてどこかへ去っていった。

 夏休み前に鹿児島でもクラスタ-が発生した。天文館にいけない日々がスタ-トした。今度のコロナくんは鹿児島のいろいろな所に姿を現した。どこもかしこもコロナくんだらけでないかとだれもが心配になった。とうとう6月末予定の研修旅行も2学期に移動することになった。生徒も教師も県外に行く度に健康観察や隔離生活が必要となり、心配だけが募った。帰省できない寂しさに初めての寮生活の生徒たちは押しつぶれそうになった。1学期から夏休み、2学期初め、コロナくんはあちこちで大暴れ、みんなの心をずたずたにした。報道される数字に心を痛める、先の見えないがまんの日々が続いた。

研修旅行の10月末実施は至難の業だった。何しろ毎日、全国で感染者数が増え、流行、注意地域に目的地の北海道が入るのも時間の問題だった。計画では東京ディズニ-も予定していたが、これをあきらめ、北海道だけで実施することにした。旅行業者と連携して、当日の感染状況を把握し、訪問先や研修場所を変更することにした。コロナくんの脇の下をすりぬけて、北海道でのファ-ムスティを実現できた。旅費が安くなるなどのGotoトラベルの恩恵を受けたのにはびっくりした。中学体育コ-スも大阪近辺のサッカ-、野球観戦をあきらめ、熊本、長崎に変更しての実施になった。キャンセルがあいつぐ中で、思いがけず、立派なホテルに宿泊できたと聞いた。県内実施とした学校も多かった。

 やがて令和3年がやってくる。新しい生活様式は定着し、感染しやすい5つの場所への注意が喚起されている。ここまでで、人が「距離」にいかに左右されるかということがわかった。マスクで顔が見えないと気を使わなくて済むという人もいる。しかし、知り合いがまったくいない世界に暮らすようで、寂しい。足型の絵に誘導され、いやでもディスタンスを守らされる。「ふれあい」の歌詞ではないが、「コロナくんに出会う度に大切なあの人を思い出す。」この1年のコロナとのつきあいで、一人では生きていけないこともよく分かった。なにげない心のふれあいがほしい今、そろそろ、コロナくんとさよならしたい。

きばっど 生徒への語り方3 R3.1.15

生徒への語りのかまえづくりが生徒指導の話になって終わってしまったので、少し視点を変えて語り直したい。生徒指導ではこんな語りがよいと話は進んだのだが、授業場面ではこう語りたいと、キ-ワ-ドでの語りおすすめしたい。

キ-ワ-ドでの語りというイメ-ジをつかむ話から切り出したい。移動する乗り物の中で、ふと見上げると、液晶パネルに情報が流されていることがある。

12文字から60文字の間で流される情報は、キ-ワ-ドの連続だといってもよい。かねてからキ-ワ-ドに注意して聞いたり、書いたりが要求される。語る方も、聞く方もこのキ-ワ-ドを外して理解することにはならない。つまり、常識として使う言葉で、理解がぶれない言葉が使用されている。

もし、この情報が理解できないとすれば、現在の日本の常識から取り残されていると考えても良い。これらの言葉は、学校や家庭で使われなくてはならない。新しい知識の獲得が自分でなされるようにしておくことが必要だ。また、限られた時間でどれだけのものを聞くことができるのか、理解できるのかの力も向上させなければならない。

鹿児島中央から乗車し、ハウステンボスに行くとすれば、途中の乗り換え駅で下車する必要がある。駅名と所要時間の情報をどう活用するのか、朝食を食べてないとすれば、弁当を買えるかどうかを判断することにもなる。到着時間だけでなく、発着時間も調べたい。スマホのどんな機能を使うとよいかとなる。天気が怪しげなら、お天気アプリの出番である。キ-ワ-ドで聞き、新たな課題解決にむけて知識を統合する。まさに生きる力である。予算が1000円しかないと仮定すれば、立ち食いうどんですますのか、おにぎりとお茶の昼食にするのかは到着駅の様子を次第だ。詳しく調べたい。快適な旅を楽しむためには、一つの情報に重ね合わせていく部分と広げていく部分が必要なようだ。

授業の中に取り出すキ-ワ-ドにもこんな作用があるものがよい。その言葉をきっかけに無数の関係が形成され、新たな課題までも導き出されていく。数学の展開や分解ではないが、取り上げたキ-ワ-ドがこんな形に展開されていくことを見せると生徒も興味・関心が高まる。自分たちでもやってみたくなる。キ-ワ-ドで語ることはそんな意味でも重要だ。

先生は世の中を知らないので、「甘い」と言われる。夢や希望を語る人が甘くなくてどうする。世の中を知らないから言えるという話も否定はしない。学校は未来への適応と創造を任されている。だから、創造を考えて、学校は甘い。創造はまちがいから始まる。失敗から学ぶことは、偶然できた成功よりも多い。夢や希望のない未来にだれがあこがれようか。未来を見たいと思うなら、失敗に強くなることだ。失敗なんか乗り越えていけ。失敗から学べ。

きばっど 今年のスロ-ガンは R3.1.12

「やり抜く力」が今年のスロ-ガンである。年頭のあいさつの中で理事長が「自分の目標にむかって、ひたむきに最後まで努力する。挫折困難を乗り越えて、あきらめずに、粘り強く、やり抜く」とこの力のイメ-ジがわくように語られた。この力は「継続して」がポイントである。成功する人に共通する資質、あるいは、取組という観点で、研究者の言葉も引用された。「成功する人には長期間、継続して最後までやり抜く力がある」 成功の法則として、「やり抜く力」は絶対に外せないようだ。さらに、「けっしてあきらめずに努力する」ことや「情熱と粘り強さ」も要素として語られた。最後に「やり抜く力」を発揮しやすくするために、目標達成シ-トの活用を取り上げられ、毎日、確認して実行するようにと付け加えられた。教師自らがこの力をつけて、生徒たちにもこの力がつくようにと結ばれた。やり抜く力がついたかとどうかは結果として成功したかということになりそうだ。評価として、結果を重視するということだ。

 やり抜く力を生徒につけるにはどうするかで話を進めたい。まず、意欲が必要だ。動機づけが大切だろう。対象としてやることが自分の将来について大切だ、価値あるものだと認識できれば、自ずと取り組みが違う。継続して努力できるエネルギ-がそこに存在する。やり抜く力は成功体験の上に強化されるだろう。文化祭や体育祭の学校行事の中で、自分が任された仕事をやりとげる時、「困難や挫折を乗り越えて」となるに違いない。やりとげるを実感できる特別活動の取組こそ大切にしたい。教科についていえば、客観的な評価となる資格の取得である。英検や漢検、数検などはやり遂げた指標になるだろう。 具体的には「やる気 やること やり抜く やり遂げる」の流れを考えて指導したい。やることを発見させるのはキャリアを育てるのにも重要だ。学習に主体的に取り組ませたいのであれば、本人が何をやりたいのかを相談しながら決めていくのが良い。その意味では、目標達成シ-トは担任や部活動顧問と語りながら作らせたい。やることは達成シ-トを見ればすぐわかるとしておきたい。さて、やる気には個人差がありそうだが、形を作ると高まることはよく知られている。授業に入る前の黙想などはまさに心の形をつくる行為である。しかし、なぜ継続できないだろう。継続すれば、正座した時の足のしびれのようなものがあり、組み替えたり、立ち上がったりが必要となる。「継続する」は、けっして同じことの繰り返しではない。改良しながら継続するのだ。そうでなければ、続かない。教師は、改良の観点を教えたり、組み替えのタイミングを指導したい。そうやってやり抜く力を育てていくと、人は次のやることを自分で見つけてチャレンジするようになる。やり抜く力は他に転嫁して発揮されてこそ本当の意味で身についたことになるだろう。

きばっど 生徒への語りは R3.1.8

前に取り上げた「生徒への語り」の続きである。語るときは「かまえ」をつくらせることが大切である。小学校低学年で、「話す人の方を向いて」とか「話す人の目を見て」と指導され、せっかく身についたのに壊していないか。教師主導、知識注入型の授業が増えると、教師が生徒の表情をしっかり見ない。見ているのかもしれないが、 授業は先へ先へと進んでいく。高校になれば、さらに加速していく。そのうち、「点検しよう」がマヒしてしまう。生徒へ関わりが減ると、教師はテレビの人と同じに生徒には見えてしまう。こうなると話を聞くはずがない。嫌いなタレントと同じで、心のスイッチはオフになってしまう。

 小学校の低学年での躾は簡単になくならない。だから、「これから話すからね」のかまえをつくって話すと、生徒もその気持ちになるので語りやすい。家庭教育学級で母親に語るときにもこの手順が有効だ。生涯免疫のようなもので少しのことで、十分にかまえを作らせることができる。話す人の方に顔をむかせて、目の中に自分が入ること。そのためには、正しい姿勢をとらせる。スマホをさわらせない。鉛筆は握らせる。そして、「話を聞く姿勢ができていますね」とか褒めてあげることだ。ここまでさせた。この場面なら必ず大事なことを言うぞと期待させて、かまえづくりの完成だ。次に話はできるだけシンプルがよい。語ることは一つ、「◇は○です。」を語ると決めておくと話がぶれない。時間があれば、2から3のキ-センテンスを準備する。

生徒指導の話には、「語りすぎはよくない」と少し注意が必要だ。教師は記憶力がよいので、つい過去の問題点もいっしょに解決をしようと意気込む。記憶に新しいものを一つだけしっかりと理解させる方が効果的だ。あれこれとしかるとどれでしかられているのかわからなくなる。次に具体性がないといけない。そのためには問題行動に至る状況を口頭でしっかりと説明できないといけない。動機や原因は当然だが、聞き取った問題点について、教師の言葉でしっかりと語り、どこが問題なのかを理解させることだ。これでかまえができるので、ここからいよいよ指導に入れるわけだ。かまえがないといくら語っても届かない。 本人に「どうすればよかったのか」の過去を語らせ、「今後、どうするのか」の未来を考えさせることだ。過去はもとにもどらないが、これからの生き方を変えていくことはできる。学校は社会に出る前の人生の道場である。ころんだり、泣いたり、笑ったりしながら、よりよい人間関係や理想的な生き方を志向する場所で、許される場面も必要な道場である。それは社会に出て取り返しのつかないことをさせない予防でもある。人はまちがう、そして、人は正すこともできる。そのチャンスをもてることを学ぶ必要がある。仏ではないが「三度まで」の気持ちは、教育者として持ち続けたい。

きばっど 子(ねずみ)の年から丑の年へ R2.12.25

今年はねずみ年で、多くの子(財産)に恵まれた。予想しない経験のオンパレ-ドだった。まるで、課題解決の授業を受けているようだった。生徒の活動をとるか、コロナ感染防止をとるか、迷う日々だった。どちらもとるが正解なのだが、簡単にできずになかなか難しかった。入学式は「密をさける」でスタ-トした。コロナの正体が明確でないまま、あれこれ取りやめた。「生徒活動」か「防止対策」か、連立方程式の解を求める日々を経験した。人間が距離に敏感な動物であることにも気づいた。「ソ-シャルデスタンス」がはやり、傘で距離をとるとか、床には足形が描かれた。心の距離はぐっと広がり、マスク着用が日常化して、みんな見知らぬ人ばかりになった。ズ-ムとかオンラインも学んだ。顔を見てしゃべると心の距離も縮まる。オンライン帰省という言葉も出てきた。映像の効果には弱いこともわかった。先が見えずに、がまんの限界が近づいてきた。感染が少し下火になったと出てきた「ゴ-ト-トラブル」(耳が悪いので最初こう聞こえた)にもふりまわされた。つらい日々から解放されたい、旅に出たいとだれもが思って行動した。結果、だれがもうかったかな、経済は立ち直ったのかなと、どこを見てもわからないままに年末がやってこようとしている。

 経験した話を続けたい。まずはマスク購入の話、3月末になったらマスクはほとんど手に入らなくなり、コンビニに入荷する12時ころにならんで、やっと購入した。コンビニ商品は夜中に変わるようだ。そして、消毒液もなくなり、体温計もなくなった。「毎朝検温してください」の学校からのお達しのせいだ。探し回って5軒めでようやく買えた。天文館でのクラスタ-から、三密になるとだれでも必ずコロナになることも学んだ。それ以来、天文館には行っていない。うわさに左右されない自分と信じていたが、そうでなかった。「不要不急の外出」と何度も言われたが、その意味が実感できなかった。大都市と地方とは少し違うと言うことだけは理解できた。それだけ、コロナが怖いということだ。

 はじめのうちは、コロナという会社名だけで、従業員が差別された。ばかげた話である。医療従事者への差別には怒りを覚えた。情報に振り回されると、差別がこんなに出てくるのかとびっくりした。エコモという機械やスペインかぜの話も知った。たった2ヶ月で世界がめちゃめちゃになることもわかった。サムディに備える重要さも学んだ。そのために、まずは仲良よくすることだ。共通の敵に立ち向かうのに、今回、10ケ月を要した、ワクチンができた国から接種してするのはよいが、できない国は滅んでしまうのは困る。将来をコントロ-ルされてしまうのではよくない。うし年は「憂し」にならないよう、人と人をつなぐヒモ、紐帯を思い出してほしい。来年こそ、世界がつながり、コロナでぐちゃぐちゃになった距離を正しい状態にもどし、お互いが仲良く暮らしたい。学んだことは忘れてはならない。

きばっど 隠された常識 R2.12.21

昔物語、童話には隠された常識があるように感じる。たとえば、「大きなかぶ」という小学校で学習する国語の教材だ。かぶを引っこ抜くという簡単な話だが、登場する人物や動物の出てくる順番などに不思議な感じがした。ロシアの童話だと考えると、マトリョーシカ人形的な並びから発想したのではと考えてしまう。かぶが抜けないのであれば3番目にくるのは、息子かあるいは娘であろう。孫が来ること自体から変だ。ここに隠された常識があるのではと考えてしまう。

 こんび太郎や一寸法師では、子供に恵まれない年寄り夫婦が神様にお祈りして子供が授かる。本来ならありえないことなので、特異な子供として誕生するという設定がすんなりと受け止められる。孔子の誕生では父と母が「野合して」と書かれている。なんか驚く表現だが、これは、父と母の年が離れていて珍しい結婚という意味だ。「破天荒」と同じで字面だけではなかなかたどり着けない。

 徒然草の「ねこまた」には、かけ事好きな法師が飼い犬を猫また(猫が長生きすると化けるという妖怪)と間違えて、さんざんな目にあう話には必然性がある。今でこそアスファルトできれいに整備された街並みは当時は全然違う景色だった。書かれた時代は無数の小川が流れる湿地帯であった。真っ暗闇の中、慣れた道とはいえ、場所的にも何か出てきそうだ。法師のくせにかけ事している。やましい気持ちでいっぱいだ。猫又と思い込むから、転げて小川にはまり、かけ事で得た商品もずぶぬれになる。当時の人はこの地名を聞いたり、法師の名前を連想しただけで、このような話の結末が見えたわけである。

 かぐや姫の話では、昇天の時、帝に不死の薬を、翁と媼に形見の着物を贈る場面がある。着物を贈るのがこの当時の最高のプレゼントである。古着を始末したわけではない。自分の体の一部を残したようなものである。まあ、不死の薬は山で燃やされてこの世に残らないと矛盾がないように話が展開され、焼いた場所が不二の山つまり富士山になるというしかけだ。この隠された常識は鑑賞していく上で大きなカギになる。作者と読者の距離感の問題を読解という行為の中で考えていく必要がある。つまり、翻訳文学や古典などもこの部分をぬきにして鑑賞はできない。  多くの翻訳小説はキリスト教の素地をしっかりと押さえて読んでいく必要がある。また、レンガづくりと木材建築とは当然違うので、「アンネの日記」の隠れ家だって簡単に見つからない。日本と違う隠し部屋の構造も考えられる。日本の家屋にはあんなに気密性高くないのですぐに見つかってしまうだろう。何年も潜伏するのは難しい。「レーミゼラブル」の舞台のパリは、下水道が整備されている。革命の混乱の中、逃亡するにはこのことは大事だ。幾重にも常識の伏線があるのも事実だ。

きばっど 視覚化とは R2.12.18

コロナ感染防止に新たに示された5つの場面とは 「飲酒 大長 なし 狭同 切り替え」で覚えておくとよい。「大長」は「大人数で長時間にわたる」と言葉を足して、解凍(比喩表現)すればよい。これで場面が明確に浮かんでくる。

キ-ワ-ドで物事を整理すると、記憶の定着にも効果がある。

絵本を見て、こどもに質問するわけだが、どんな絵本が定着がよいのかを研究した人もいると思う。数を関係づけると、間違いなく記憶はアップするようだ。みなさんもご存じの「はらぺこアオムシ」では、毎日果物を食べるというくだりを実によく子供は覚える。一日目は1個、二日目は2個という具合に5日目まで進む。最後にアイスクリ-ムやソ-セ-ジなど、子供が好きな食べ物をたくさん食べる。数のおもしろさ、絵本の構造のおもしろさ(食べた果物には穴があいている)が満載だ。そして、食べものの名前がオンパレ-ドの最終日は全部覚えて大きな声で言える。ここまで覚えのも興味・関心のなせる技だ。

なぞなぞの構造も記憶力アップに効果的だ。「白熊のパンツ」という絵本では、いろいろな動物のパンツが出てくる。パンツのところだけの切り抜き絵本で、ぱっと見ると、だれのパンツかわからなくしてある。次ペ-ジまでめくると持ち主が分かる。カラフルだったり、おおきかったりと実に多彩なパンツが出てくる。なぞを解決しようとする子供の心理を実によくとらえている。

 「うえきばちです」という絵本はさらにおもしろい。のっべらぼうに水をかけるとめがでました。もちろん2つである。次にはがでます。はというが歯である。はなが咲きました。もちろん、花ではない。最後は、足や手が出て、鉢からいなくなる。そして、また、のっぺらぼうに水をかけると、目が出る。今度は3つである。こどもは大笑いして終わる。もちろん、こわがる子供もいる。おもしろさがことばを覚えた子供に新鮮に伝わる。花と鼻。目は芽、歯は葉とわかるとき、笑いが起こる。絵本の力はすごい。そこに自学自習の構造がある。

 仮説実験授業では、「授業書」と呼ばれる自作教材を活用した。実におもしろかった。切り込みが教科書と別である。こんな切り方もあるのかが楽しかった。ひょっとすると、笑いやユ-モアの中におもしろい授業のヒントがあるようだ。また、数学的に整理するのもよいのではないかなど、絵本に刺激されていろいろな発想がうまれてくる。実におもしろい。  視覚化というが、絵本は動いていない。キ-ワ-ドで構造化するとよい。つまりは、絵本のようにわかりやすくするということだと思う。筋は簡単に、対象は明確に、そして、ここぞという所では考えさせるように…。仮説実験の授業が得意だった同僚に聞いてみたいものだ。ところで、絵本は授業書になりうるのかと?たぶん、なるに決まっていそうだ