卵をたべない孫               H29.6.12

きばっど育英館    卵をたべない孫               H29.6.12

道徳の教科化が話題になっている。いじめのアンケ-トがとられている。いじめの授業の中で脳の話があった。孫が卵を食べなくなった。目の前にあるこれらのことは関係があると思えてしかたない。道徳を考える話を始めたい。

皆さんが小さいころ読んだ「はらぺこあおむし」を思い出してみよう。この話は卵からあおむしが生まれるところから始まる。この絵本を孫に読んで聞かせた。はらぺこあおむしは曜日ごとにいろいろな果実を食べていく。最後には子どもの好きそうなものを腹いっぱい食べる。この場面が一番印象的でおもしろい。しかし、この孫は卵からあおむしが出てくる場面が心に残ったらしい。ニワトリや恐竜の卵、いろいろな卵に命が宿ることを絵本やテレビで知った彼は卵を食べるわけにいかないと思ったようだ。生命誕生の神秘は、こんな小さい子供にも感動を与えているようだ。

道徳の教科化で何を教えるのかと考えたとき、その生徒がもつ価値を変えていけるような授業が必要である。授業過程で現実の自分とかかわる話合いが必要なのである。少なくとも小さな子が食べてはいけないと価値が変容するような授業をめざしたい。

いじめられると脳の中の生きる力をつかさどる部分が弱り…、と指導案の資料にあった。そこで、脳の話を少ししよう。成人の脳の中には、動物的な自己、規範的な自己、それらを調整する自己がある。動物的な自己はエド、あるいは、イドと呼ばれ、本能のおもむくままに行動する一番エネルギシュな自己である。しかし、これを押さえつける超自我(親のしつけや世の中の規範)が存在している。だから、動物的に行動することはない。しかし、この両者は常に争う。そこで、調整役としての自己が形成される。生まれた頃は動物的な自我がほとんどを占めている。それと親が関わり、トイレ、食事、身の回りと規範が教えられていく。家庭から社会へと活動範囲が広がり、そこで人のものを盗み、人に迷惑をかけると、厳しくしつけられる。そうやって、超自我が形成される。親の教育方針やまわりの環境で超自我の強さが決まる。2つの自我の争いばかりで、行動が決められないとやってられないので、調整役が必要となる。この自我は2つの自我の葛藤のたびに出現して、調整し、次第にその役目を大きくなり、自我の大半をしめていく。調整役のさじかげんが今の我々の行動である。

さて、いじめアンケ-トを例にとると、いいかげんな調整役の自我が主導権にぎって解答を書くと、「これくらいいじめに入らない」と考えてしまう。本当にそれでよいのだろうか。命が宿る卵を食べるわけにいかないと信じている幼子の超自我と同じように、いじめはけっして許されないと中・高校生の自我には認識させたい。そこで、道徳の授業では、本当に自分の自我はどのあたりの価値で調整しているのかを再認識させたい。けっして、絶対にと考える超自我は存在していると信じているが、行動させる調整役の自我を覚醒させる必要がある。

身近に命の尊さを考える教材を準備したい。はらぺこあおむしの話のようにどこに反応するかは個性である。道徳の授業は35時間、身につけさせたい徳目を考えたとき、どれもが貴重な1時間である。いろいろなもの(価値)を食べて初めて美しい蝶になるようだ。

街の灯り                H26.6.22

きばっど育英館      街の灯り                H26.6.22

古い歌から話を始めます。堺正章の歌「街の灯り」はとても詩情豊かで聞きながらジ-ンときます。「街の灯りちらちら あれは何をささやく 愛が一つめばえそうな胸がはずむ時よ 」の歌詞です。また、よく知られた「ブル-ライト横浜」は「街の灯りがとてもきれいね横浜…」です。見た場所は、山下公園でなく、港の見える丘の方でしょうね。高台から、街の灯を眺めると本当に心が和みます。なぜそういう気持ちになるのかは、灯の一つ一つに人々の暮らしがあると、共感できるからなのでしょう。

思い出す歌が少し現在に近づきますが、宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」の主題歌「君をのせて」にずばり書かれています。「たくさんの灯が懐かしいのはどれか一つに君がいるから」のくだりです。たった一つの灯の中にあこがれの人の存在を感じられるという作詞者の感性がすごいですね。そして、地球はまわっていくのです。

一つの現象には驚くほどの奥行きがあり、それを見よう、考えようとすることが大切なのです。警察ドラマで、所長室にかけてある額は、昔はよく「聲なきに聞き 形無きにみる」と書かれていました。近頃は、「正 速 美」などが多く見られます。今こそ、現象の奥にあるものを「聞き、みる」が必要な時代だと感じます。

日本は「聞き、みる」の双方向通信に長けた国であったのです。それは、八百万といわれる神々の存在です。自然界のいろいろな動きを神様の心の動きと考えた先人は、それを読み解こうとしました。その行為は習慣化され、隣人や家族、社会という人間界での相手への思いやりとなり、日本列島の上で何世代も醸成されたと考えられます。

外国から来ようが、宇宙から来ようが、相手への思いやりを変えることはないのです。

さて、物事の奥にあるものを見極めようと努力してみましょう。映画の話ですが、チャップリンの名作にも「街の灯」があります。豪華なセットも音楽もないけれど、彼の演技力でこの映画はいつまでも輝きをなくさないのです。「ない」は「ある」をこえるのかもしれません。ぜひ、この映画で奥にあるものを考えてみましょう。

とある街に暮らす浮浪者(チャップリン)はある日、街角で出会った盲目の花売り娘に一目ぼれ。彼女は男がタクシーを使う金持ちだと信じる。その夜、妻と離婚して自殺を試みていた富豪を助けて友達となる。彼は飲んでいる時だけは覚えているが、醒めると全て忘れてしまうという男だった。その為屋敷を追い出されるが、もらった金で娘から花を買って紳士のふりをする。病気の彼女のために働き、家までいって献身的な世話をする。だが、彼女が家賃の滞納で立ち退きを迫られていることを知り、何とか金を工面したい男は、八百長ボクシングに手を出すが、うまくはいかない。酔っぱらった富豪と偶然再会する。屋敷で事情を話して大金を貰うのだが、運悪く屋敷の中に強盗が潜んでおり富豪は頭を殴られ気絶する。警察を呼んで事情を話すが、酔いの醒めた富豪は覚えていない。強盗に疑われ慌てて逃げ出し花売り娘の家に駆け込むと、家賃と目の手術代として金を渡すのだった。しかし、その帰り道、男は警察に捕まってしまう。数年後、刑務所を出た男は目が治った花売り娘と偶然再会する。男の正体を知らない 娘は、憐れみから浮浪者に一輪のバラを差し出す。その時彼女は男の正体に気づくのだった。 さて、何が「ない」のにもかかわらず、何が「ある」のでしょうか?

石破茂さんのセミナ-に学ぶ        H29.6.5

きばっど育英館     石破茂さんのセミナ-に学ぶ        H29.6.5

政治家のセミナ-は総合芸術といってもよいと感じる時間だった。城山観光ホテル開聞の間に200名ほどのメンバ-を集めて、日曜日の18時からスタ-トした。まず、鹿児島県選出の国会議員のあいさつ、この中で、石破氏の人となりを感じさせる発言が相次ぐ。鳥取県出身である、キャンデ-ズのファンである、女子アナに人気があるなどで会場の雰囲気を和ませていく。いよいよ真打の登場、石破氏の話が始まる。

話の切り出しは、奄美大島を本日訪問したことから、本当にすばらしいところだを連発される。奄美出身者のハ-トをつかむ。鹿児島のよさを感じられる土地と語る。地方創生大臣をされた人だけあり、目の付け所が地元ファ-ストである。

本題に入ると、鹿児島の人でも知らない話や気づかない話が次々に出てくる。心理学で取り上げられる「知らない自分」、「知っている自分」を考える「ジョハリの窓」を開けたり閉めたりの話である。ここまで、鹿児島のことを知っているのかと感動してしまう。内容は、藺牟田池の龍伝説、やねだん、西郷南洲遺訓、JR七つ星、とバラエティーに富んでいる。そして、国の抱える少子化、高齢者問題、団塊の世代の後期高齢者問題と生涯独身率と本題へつながっていく。話は、鹿児島のよさを次々に語り、それも具体的に4つずつ並べられ、聞いている者たちはうれしさのあまりか、拍手も次第に大きくなる。本題については、「地方創生」が解決のキ-ワ-ドで、日本の再生は、先延ばしできない、失敗できない喫緊の課題であるということだった。

話がおもしろく、時間は早く過ぎて、19時を過ぎたころから、懇談会に入った。アルコ-ルなしのウーロン茶での乾杯でスタート。その後、前方のテ-ブルで三反園知事、柴立議長などの鹿児島県関係者と懇談されていた。20時30分に突然、各テ-ブルを回り出し、会場は写真撮影や握手会になった。我々のテ-ブルに近づき、一人一人に握手された。がっちりした手の感覚と笑顔が印象的だった。皆さんほとんどが、たいそう感動されている。8時50分には再び舞台に立ち、本日のお礼を述べられる。「膝を交えて語り、私を知ってもらえば、テレビで見るときも、興味・関心をもっていただける。私の話を受け止めてもらえる」と知り合った絆を確かめるような話だった。きっかり9時には終了。実にうまい、よい印象しか残らない。ライブショ-やディナ-ショ-ってこんな感じなのだろうと思った。募集活動にも大いに参考になった。とてもためになったセミナ-だった。(☆は「鹿児島のよさ」として取り上げた例)

☆ 藺牟田池の龍伝説、浮気をした男の龍と悲しんで石になった女の龍、藺牟田池は住吉池とつながっている?大浪の池にも女の龍がいた?

☆ やねだん 自立自興の象徴的存在の集落の話 創意工夫で産業を興し、人口減を食い止めたことで知られている。最近はブランド化した焼酎生産で注目された。

☆ 七つ星(豪華列車) 九州各地にクルーズ船の来航が増えていることから、九州には誇るべき、食文化、景色、歴史があることを指摘。

そこで生み出された「世界一の列車」が九州を走る。おもてなしの中核は、九州のよさ、食、景色、歴史、そして、お客様のリクエストの一つ「思い出の曲」の生演奏など、ここにしかない今をつくる努力である。

勝ちへの執念             H29.6.14

きばっど育英館       勝ちへの執念             H29.6.14

どうやれば勝てるのか、勝ちへの執念について考えてみた。練習量の差があり、相手が本当に強いのなら無理だが、力がほぼ互角か、ちょっと強いぐらいなら、工夫次第で試合の流れを変えることはできる。つまり、勝ちにこだわる話だ。

バレ-の話を例にあげると、その一つがサ-ブだ。アタックで1点とるも、サ-ブで1点取るも同じだと生徒に言い聞かせる。そうやって、サ-ブのコントロ-ルを高めると、チ-ムはがぜん強くなる。そう見えるから不思議だ。相手の攻撃のパタ-ンを作らせないように両サイドの奥を狙う。精度の高いサ-ブで攻められた相手チ-ムは立ち上がりに当然、動揺する。次に、サ-ブを横にふれるように練習させる。コ-トの角50センチ四方をねらう練習を繰り返す。できたら、縦にふること。アタックラインを基準に縦50センチ間隔で打ち分ける練習を繰り返す。このころになると、カンをつかむ生徒も出てくるからおもしろい。このサ-ブ練習を1月もやると、一点の大切さを意識し、試合展開が違ってくる。勝ちにこだわる意識も高まる。

このことは、勉強にも言える。とにかく、成功パタ-ンをイメ-ジできることだ。

もう少し、バレ-の話を続けると、次はレシ-ブである。とにかく体の中心で受けることと、腕を張るタイミングを覚えること、後は返したい方向へ体を向けることを指導するとよい。バレ-にはしなやかさがも求められるので、柔軟体操が効果的だ。体がかたいとアタックをうたせてもかぶるだけだ。ついついバレ-談議になった。

本題に戻して、学習の取組だが、10分間テストやヒヤリングはまさにサ-ブ練習のような話だ。いちばんてっとりばやく点数をあげられる。これを大事にしないでどうするのかという話だ。その次が勉強の仕方だ。先ほどのレシ-ブの話ではないが、「大事な所を確実に覚える」というフォ-ムが身につけば、それをもとに解決できるというアタックへつながるので、攻めのパタ-ンとしてまちがいなく力となる。

話はあちこちに流れているが、成功パタ-ンを身につけること。若いうちになにか一つのことで成功する。その体験は確実に転嫁する。先日述べた「初心」の話のうち、「是非の初心」はこの成功パタ-ンをいっている。成功体験をよく分析すると、そこには成功パタ-ンが存在する。それをうまく自分のものにできると次の成功がたやすくなる。次の成功に近づくことができる。成績のよい人をマネするのも近道だ。同じ人間のやること、必ず、自分のパタ-ンにできるものがそこにはある。

「連覇」という言葉には、勝ちパタ-ンを知っているとか、勝ちパタ-ンにもっていけるという秘密がある。だから、連覇した人に聞くのが、きっと一番なのだろう。「死ぬほどがんばれ」というが、勉強を死ぬほどする人はあまりいない。きっと死なないと思う。しかし、そのぎりぎりまで勉強することが大切なのだろう。ぎりぎりまでやるには、自分との闘いである。また、死ぬほど好きならがんばれる。どちらにしても、成功体験のカギに間違いない。自分が成功したと感じる人は、この「ギリギリ感」と「とにかく好き」が共通しているはずだ。勝負は一瞬であるが、準備には時間をかけたい。何もせずに変わる人はいないが、何かすれば必ず変わることがある。

ある日の授業             H29.6.16

きばっど育英館       ある日の授業             H29.6.16

道徳の授業はむずかしい。教師に成り立ての頃は、道徳的でない自分が教えられるのかな?と思いながら、一歩間違うと国語まがいの授業をやってきた。年間35時間を「ああでもない、こうでもない」とつぶやき、行き詰まり、今日の価値は「友情づくり」?と決め、クラスマッチ練習をしたりもした。特別活動とコラボして、「将来の夢と希望」という徳目?で、職場体験学習の事前指導もした。研究校では、道徳と特別活動を合体した「特道の時間」を提案してみたりと、道徳の時間で悩まなかった日はなかった。

道徳について、「これだ」と納得したのは、教頭になり、死を取り扱う教育について研究校で取り組んだ時だった。さすがに、生きる、死ぬを考えると、「崇高な」の世界を垣間見ることになり、他教科では扱えない部分を感じた。道徳を極めるには教師生活38年は短すぎたが、素直な感想を言うと未だにすっきりしない。

ひさしぶりに道徳の授業の話になった。思春期の女子3名が、お互いに距離をうまく保てず悩んでいる学級での話だ。国語の詩「夕焼け」を準備したのに、意識的に脱線した。「皆さんは人生のどこにいますか。」と黒板に数直線を書いた。「私がここです」と60歳の印をつけて、線の半分に30、そしてそれを3等分して10と20と書いた。その間15と書き、丸をした。そして、「校長先生はこれから」と線をぐいぐい伸ばしていき、100を書いて、笑いを誘った。「こうしてみると、みんなはまだまだ先が長いね。」さて、「先生は14歳の時のことを昨日のように思い出す。ところで、みんなは60歳の自分を思い出せるかな?」と聞くと、「むりむり、なったことないし」と笑いながら答える。授業の導入は成功したようだ。

「そうだよね。できないよね。」といって、絵本「ようちえんいやや」を読む。なぜ、この絵本を読むのか、いぶかしそうだが、笑いながら聞いている。絵本の内容は、お母さんと離れたくないばかりに、幼稚園生活に「いやや」という園児の話である。大笑いしながら、「いやや」と言った幼稚園の自分を懐かしがっている。「なぜ、笑うの?」と質問すると、「自分もそうだったから、あのころを思い出しておかしい。」振り返って考えると、あんなことで…と思えるものが多いのが人生なのだ。

「そうだね、14歳だから幼稚園のことを笑って思い出せる。みんなも30歳になり、40歳になり、その時に今を思い出すんだ。あんなことで悩んでいたなあと14歳の今を…」この絵本を見ながら、過去は未来の自分が意味づけすることを感じ取っている。

ここでなぜ人は悩むのか、なぜ気持ちをコントロ-ルできないのかを話した。脳の中には動物と、神様と、2つを取り持つ「心」が存在している。わがままでいうことを聞かない心を神様の心がコントロ-ルしようとしている。あまり強くコントロ-ルするとなにもかもやる気もなくなる。そこで、2つを調整する心が生まれ、発達していく。これらがうまく働くと人は安定する。心の仕組みを理解すれば、怒りや不満が生まれることも分かるし、それをどう解決するかもわかる。結局、答えは言わないままだった。しかし、表情を見ていると、彼女たちの学校生活も少しは楽になりそうだった。

ミクマイケル校との国際交流           H29.6.2

きばっど育英館  ミクマイケル校との国際交流           H29.6.2

国際交流の在り方については、いろいろな考え方があるだろう。交流を図るためには、「ユ-モア」は潤滑油としてぜひ必要なものだと考えている。

習字の時間に右に払う書き方を指導する際に、池田湖に住むイッシ-を取り上げた。右払いは恐竜をシンプルにした表現と考えて、字を書かかせる指導である。その方法は、声に出して、「池田湖の」で起筆、斜めに送筆して軽く止まる。そして、筆先を右横へ移動させながら、「イッシ-」と書き出す。つまり、起筆した筆がいったん止まり、方向を変えて書き出し、書き終わる様子や、筆圧をかける部分と送る部分を明確にするためである。板書には「永」という書写の筆使いの基本が入った文字を書いた。書写の世界では「永字八法」と呼ばれ、書写指導の導入段階で使われる。この文字の右への払いの指導のおきまりだった。しかし、池田湖のイッシ-は昔の生徒には共通基盤だったが、今の生徒は知らない。当然、ネス湖のネッシ-も知らない。残念。

次の日の歓迎一日遠足は長崎鼻パ-キングガ-デンだった。近くに開聞岳、遠く屋久島をながめられる快晴の一日だった。生徒たちは童心に帰り、パ-ク内を駆け回っていた。帰路には池田湖でのトイレ休憩を設定した。新緑の中に見えてくる池田湖、風が水面を揺らすだけで、目を凝らしてもイッシ-は見当たらない。そのイッシ-はドライブインにいた。コンクリ-トづくりのしっぽが短いイッシ-である。右払いとはイメ-ジが違う。おみやげコ-ナ-の奥に大ウナギも展示されている。あれだけ大きなうなぎもいるのだから、きっとイッシ-だって…と思いたくなる。英語が堪能なら語りたいものだ。ところで、ミクマイケル中の生徒たちは書写の時間のユ-モアをどれほど理解しただろうか。池田湖までやってきたのだが、どんな感想をもったのだろうか。けっこうな暑さでソフトクリーム屋の前に列がなかなか縮まらなかった。

市内観光や桜島探訪、宮崎観光と彼らの体験は続いていく。彼らが自分の体験したことを教科レポ-トとしてまとめていると聞いたとき、SFの名作「スタ-トレック」を思い出した。クル-は未知の惑星に降り立ち、それぞれの分野で、その星を分析する。そして、艦長へ報告する。さまざまな観点からの報告書をもとに、艦長は総合的な判断を下す。漠然とものを見るのでなく、数学的には、生物学的に、言語学的にはと考えるだけで、観察は深まる。また、自国のものとの比較もやりやすい。このような情報収集や分析の力を育てる教育は、まだまだ日本は足りないようだ。

さて、スタ-トレックのカ-ク船長だが、平和解決、友好、相互利益を常に頭において行動する。確かに地球の利益も大切だろうが、上がってくる報告書をこれらの観点で総合的に判断していく。地球の利益にこだわらない彼の判断で、物語は常によい解決の方向と向かう。分析されたものをキ-ワ-ドで整理し、自分の良心や信念に照らして判断するカーク船長並みの能力までつけられるとすばらしい。

かれらが去ると本格的な夏がやってくる。LCRや反転授業、2050年には当たり前になるこれらのキ-ワ-ドを自分のものにしたい。やっておかないと、次の教育改革に間に合わない。未知の世界に足を踏み込むには、スタ-トレックではないが、勇気と努力しかない。

大きさの自覚                    H29.5.17

きばっど育英館    大きさの自覚                    H29.5.17

生徒たちはどの程度正確に身の回りの大きさを自覚できているだろうか。

まず10キロの重さ、その重さをものにたとえて説明できるだろうか。ちなみに1円は直径1センチほぼ1グラムである。ペットボトルは500CCで500グラム、大きなものが1リットルまた、2リットルである。だから、10キロはペットボトル500CCなら20本である。

距離の感覚はどうだろうか。地図の1キロはどのくらいなのか。縮尺でいう1/25000や1/50000では違うのだが、歩いて10分程度の距離として体感できているだろうか。交通機関に頼り、移動がスム-ズだと、距離感は違ってくる。自然災害で遮断されたとき、実感するのでは危うい。地図の勉強ではないが、「1キロは一円玉を何個並べるとよいですか」と縮尺上での1センチの感覚を意識させるのもおもしろい。

当然、高さについても階段を使い、上がって初めて、高さをかなりリアルに実感できる。県庁に勤務した時分に、17階まで体力づくりで階段を上り下りしてみた。下りも登りも10階ぐらいが限度である。「ひざが笑う」という体験ができた貴重な経験だった。ちなみに育英館の校舎は3階だから、当然10メ-トル以上はあるだろう。しかし、「20メ-トルを超す津波が迫る」がどれほど恐ろしい話なのかも想像できる高さとしてとらえさせたい。

奈良の大仏の大きさを自覚させるために、机、イスを教室の後ろに下げ、広幅用紙に書いた大仏の手のひらで授業する社会科の先生がいた。太陽と地球の距離をボールにたとえて、授業する理科の先生もいた。今考えると、どの教科をとっても大きさの自覚はなかなか大変だ。

道徳の時間はどうだろうか。地球と同じくらい重いといわれる命の重さ、本当に分かるにはどう教えればよいのか。人間を有機体として考えると、成人の人間の成分の一つ、石灰質を集めてチョ-クを作れば5、6本、鉄分を取り出せばパチンコ玉5、6個らしい。その他の部分も、皮、肉と活用したとしても、せいぜい高く見積もっても5000円ぐらいのものだろう。ものの大きさとして考えれば、利用価値も含めて、このあたりで終わる。さて、「地球よりも重い」とはどう考えればよいのだろう。

道徳の授業として取り上げてみたい。一人の人間がその年まで成長するのにかかわった人の数、果たしてきた役割や仕事の業績など、どれをとってもその人間の代わりはいない。そう考えると、それはそれですごい価値になるとうなづける。なにしろ、生まれてくるのには両親がいるし、その親にもそれぞれ両親がいたわけだし、と命の連続を考えてみても、命が軽いなんて言える材料は何ひとつない。私たちはその命の重さを自覚して生きているのだろうか。命の重さを考えて、「生きているのでなく、生かされている」と考えいたることが大切なのかもしれない。

大きさの自覚の話を続けると、「年齢」もすごい大きさだ。「1年365日、生きてきた」が30歳を過ぎるころから、10000日を超えてくる。60歳にもなれば、20000日だ。時間に換算すればさらにすごい数だ。その間、とまらずに生きてきた。そう考えただけで、感謝と感動だ。

大きさの自覚は身の回りの数字から始まり、自分にかかわる命の重大さまで考えが及ぶ時、生きることを振り返るチャンスになるのかもしれない。一人一人がかけがえのない存在であると気づくためにも、ぜひ大きさの自覚は必要だろう。時の記念日は6月10日である。自分が生きてきた時間をふり返る誕生日も個々の時の記念日だ。大きさを自覚すると、一日一日の大切さも見えてくるから不思議だ。

自習のできるクラスづくり          H29.5.22

 

きばっど育英館   自習のできるクラスづくり          H29.5.22

以前勤務した学校で先輩教師からほめられたことがあった。「宮元さんのクラスには驚いたよ。入って2月もたたない1年生なのに自習ができる。すごいなあ。帰りの会も先生がいるのかと思っていたら、生徒が進行して連絡事項を発表しているし…」ここまで話すと、生徒の質がよかったからと言われそうだが、この話は初めて勤務した学校でも同じことを言われたと付け加えたい。生徒の自主性を高めることで、十分可能なのである。また、中学1年をなめてもらってはこまる。彼らはついこの間まで小学校最上級生で5年生以下のお手本だった。できないことはなにもないのである。

まず、違いを教えて、新たなル-ルで約束をすること。小学生との違いは自分で考えてやること。先生に言われる前にやること。新しい中学校のル-ルについては、細かくいっしょにやることが大切だ。中学校はレベルが高い。小学校でできたつもりでも、中学校ではさらに努力が必要であると教えたい。そして、まずは自分たちでやらせてみる。できた部分は、ほめて、やり方を定着させる。足りない部分は注意して、また、やらせてみる。中学生としての基準を明確に示すことがまず必要だ。

ある程度したら、ある日、突然、黙って出張する。ここで、その一日がきちんとできたら、しかっりとほめる。そして、次なる目標を提示する。帰りの会、朝の会、作業と次第に生徒たちに任せる部分を増やす。できたらほめる。足りないときは新しく指導する。なかなかできない項目は、しばらくできるまでいっしょに行う。こうやって自分たちでやれる場面を増やしながら、学級を独り立ちさせていく。

学級を育てるというのはこんなふうにやることだ。次のように生徒に語る。「どのクラスも担任の先生がいるときは立派にやれる。うちのクラスもそれなりにやっている。それは先生も認める。さて、みんな、君たちなら『先生がいなくても自習ができるクラス』になれそうな気がする。明日、先生は出張でいない。自習の時間や帰りの会は自分たちでやれるかな。先生のいるときより、しっかりやるんだよ」こうやって何回か経験させると、次第と自習のできるクラスへと育っていく。このクラスでは、修学旅行などの集団行動時、何も言わなくても集合するし、教師でなく生徒同士で連絡達示ができる。生徒を信頼できているし、心配することもなかったことを思い出す。

最後の学校でも自習のできるクラスづくりに1年生から取り組んでもらった。その成果は、2年生で出てきた。400名という大人数でも時間に遅れることなく、また、夏日の長崎自主研修、荒天のスペ-スワ-ルドでも体調不良やけがもなく、実に見事な修学旅行だった。生徒たちの自主性を高めることは教師にも都合がよい。いちいち言う必要がないので、本当に必要な話ができる。例年にない合格者を出し、高校生になった彼らが特に優れたわけではないが、自主性の高まりは感じられた。

教師の顔色をうかがい、厳しい教師とそうでない教師で態度を変える生徒では学力も伸びないし、部活動で活躍することもできない。教えるは「厳しく」だが、育てるには「任せる」という別の厳しさもある。生徒の自主性は育っているだろうか。自習のできるクラスはできているのだろうか。育てることも、教えることも大切だ。

逆算の今                H29.5.26

きばっど育英館     逆算の今                H29.5.26

6月は1学期の真ん中、そろそろ中だるみも見られる時期になります。指導監の話ではないが、中だるみ防止策は①初心にかえる、②ゴ-ルを意識するなどです。そしてもう一つ、ゴールから考えた③「今」の価値を理解することなどが考えられます。

さて、生徒たちは中間テストが返却され、それぞれが点数を見ながら、訂正のやり方を考えていると思います。試験の反省と聞くたびに、学生時代のなかなか満足しなかった思い出にぶつかります。「もっとあそこをやればよかった」という反省しては、「次は100点とってやる」と意気込んで取り組んだものでした。しかし、何度もそういう思いになり、そのくせ、テストではなかなか達成感を覚えなかった。そんな記憶がだれしもあるはずですが、いかがでしょうか。結果が分かってはじめて、テストまでの自分の取組のいたらなさ、不十分さがわかるのです。正直に言うと、一度や二度のことではなかったと思います。

数学の試験の時、時間が余ったら、「必ず見直しなさい、確かめをしておきなさい」と言われた。この確かめ計算のことを「逆算」と教えられたと記憶しています。本番では時間が無くなり、なかなかこの逆算ができなかった。そのため、計算間違いやケアレスミスの連発となりました。

そこで、実生活の中で逆算するとしたら、過去、今、未来という時間の流れを少しずらして、「今」を「未来」に、「過去」を「今」と置いてみてはどうだろうか。

未来の「今」に向かって、過去となる「今」では何ができるのか。つまり、未来の正解を得るために、過去となる今から必要なものを求めてはどうかと考える。まさに逆算になります。そんな「逆算の今」を明確にイメ-ジできれば、現在やることがよく見えるはずです。また、未来にある程度の成果をあげるためにも、過去となる今を大切にしなければならないし、そこで取り組む程度もおのずと予想がつく。「これぐらいでよい」では、未来から現在となる今に満足できるはずがない。成果をあげるためにも、もっとやっておくべきだの発想が自然と生まれることになるだろう。

「最善を尽くせ」のスロ-ガンには、「全力で ひたむきに」という言葉があう。満足いく目標達成には実に抽象的な表現である。未来の今を意識してできるだけ具体達成するための手立てを描く必要がある。具体的な手立てと言いながら、よく見えない。その意味では「今」という言葉で未来を意識したい。今、悔しい思いをしたり、後悔したりするを未来とそっくり置き換えてみるとよい。そこまでリアルに感じられる未来があれば、過去となっていく今をなおざりにはできない。「今できることをひたむきにがんばる」で取り組むことだ。

「逆算の今」を考えるには、ゴ-ルが明確でないといけない。自分はここまで高まりたいと考えれば、過去の自分の実績や経過を加味して、やがて過去となる今にはこの程度のことが必要であると考えられる。自分の能力をよく知っていればこそ、今という時にどれだけの努力が必要なのかもみえてくるはずだ。中だるみの防止策の「逆算の今」、ぜひキャッチフレ-ズにしてみたい。

ことばの連続性から「ほめる」を考える    H29.5.10

きばっど育英館   ことばの連続性から「ほめる」を考える    H29.5.10

言葉は連続する中で初めて意味をなすものだ。まるで、池に石をなげて波紋が広がるように、心の中に波紋が広がる。その言葉が沈んで、波も静まってから、次の石を投げ込むのか。それとも、立て続けに投げ入れるのかで、話が変わってくる。

前の言葉の残響をうまく使うか、それとも、まったく違う効果を出すのか。これは言葉のセンスとしか言いようがない。前の言葉が響いているところに、次々に言葉を投げ入れると、それは強められ、意味が拡大していく。少し外して投げると、強すぎた言葉はある波の部分は打ち消しあって緩和されていく様に聞こえるはずだ。

「言いたいことをずばりという」とか、「遠回しにいう」も、石の投入れモデルで考えてみるとおもしろい。「ずばりという」のは、よいタイミングで投げ入れたときの反応だろうし、「遠回しにいう」は「少し視点を変えていう」と同じようなもので、石の投げ込む位置を本来のねらいと違い、少しずらすのと似ているのかもしれない。

文章はキ-ワ-ドと呼ばれる言葉の連続性で成り立つ。この連続性の観点から考えると、数名の会話で発言した者の言葉が響いている間に、他の人が新しい言葉を持ち出すとしよう。前の言葉との響きあいで、そこには新しい意味が発生する。それがおかしさや笑いにもなることもある。不幸なことに、投げ入れ方が悪いと、悪口だと誤解して受け止められると、仲たがいやけんかにも発展するだろう。

「口は禍のもと」という考えはこのあたりから来たものだろう。しかし、口の使い方一つで幸福もやってくるはずだ。石の話に戻るが、褒めるという観点でどう投げ込めばよいか、考えてみたい。適当な小石を何個もタイミングよく投げることが心に響くに違いない。大きな石をやたら投げ込むのは、びっくりするだけでほめられたとは感じないだろう。「ことばが先にある」というのはあたり前のことだが、その次に来る言葉やしめくくりとなる言葉にも注意したい。話すという行為は連続する言葉と言葉の響き合いを大事にしながら、伝えたいことへと導くのがよさそうだ。言葉同士の響きをうまく使えないのでは、話の効果は半減する。ぜひ、細かく研究してみたい。

「ほめる」というのは波紋の美しさでもある。石の大きさもだが、投げ込み方も工夫すべきだ。一つの石が沈んだら、少し離れたところに優しく投げ入れる感じだろう。よい褒め方は、主語を自分にして、相手の気づかない所を見つけて評価してあげることだ。相手の可能性をほめるわけだ。また、褒める根拠も明確にしたい。やたらほめるのはよくない。褒める材料を準備して取り組ませるのもよい。実技や問題を解かせて、結果でなく過程をほめよう。やる気や意欲が出るようにほめることがポイントだ。

「ことばを多く持つこと」、「あなただけに使う」とか、「ここだけで使う」などは効果的に違いない。タイミングや個人的という要素も大切にしたい。ほめっぱなしにせず、機会をみて、相手を思っていることをアピ-ルしてよい。相手を伸ばすという観点で石を投げ入れてみたい。どんなタイミングで何回投げるのが良いのか。ぜひ、知りたいものだ。「稲はお百姓の足音で育つ」ということわざがあるが、人も教師の思いやりで育つに違いない。