きばっど 子(ねずみ)の年から丑の年へ R2.12.25

今年はねずみ年で、多くの子(財産)に恵まれた。予想しない経験のオンパレ-ドだった。まるで、課題解決の授業を受けているようだった。生徒の活動をとるか、コロナ感染防止をとるか、迷う日々だった。どちらもとるが正解なのだが、簡単にできずになかなか難しかった。入学式は「密をさける」でスタ-トした。コロナの正体が明確でないまま、あれこれ取りやめた。「生徒活動」か「防止対策」か、連立方程式の解を求める日々を経験した。人間が距離に敏感な動物であることにも気づいた。「ソ-シャルデスタンス」がはやり、傘で距離をとるとか、床には足形が描かれた。心の距離はぐっと広がり、マスク着用が日常化して、みんな見知らぬ人ばかりになった。ズ-ムとかオンラインも学んだ。顔を見てしゃべると心の距離も縮まる。オンライン帰省という言葉も出てきた。映像の効果には弱いこともわかった。先が見えずに、がまんの限界が近づいてきた。感染が少し下火になったと出てきた「ゴ-ト-トラブル」(耳が悪いので最初こう聞こえた)にもふりまわされた。つらい日々から解放されたい、旅に出たいとだれもが思って行動した。結果、だれがもうかったかな、経済は立ち直ったのかなと、どこを見てもわからないままに年末がやってこようとしている。

 経験した話を続けたい。まずはマスク購入の話、3月末になったらマスクはほとんど手に入らなくなり、コンビニに入荷する12時ころにならんで、やっと購入した。コンビニ商品は夜中に変わるようだ。そして、消毒液もなくなり、体温計もなくなった。「毎朝検温してください」の学校からのお達しのせいだ。探し回って5軒めでようやく買えた。天文館でのクラスタ-から、三密になるとだれでも必ずコロナになることも学んだ。それ以来、天文館には行っていない。うわさに左右されない自分と信じていたが、そうでなかった。「不要不急の外出」と何度も言われたが、その意味が実感できなかった。大都市と地方とは少し違うと言うことだけは理解できた。それだけ、コロナが怖いということだ。

 はじめのうちは、コロナという会社名だけで、従業員が差別された。ばかげた話である。医療従事者への差別には怒りを覚えた。情報に振り回されると、差別がこんなに出てくるのかとびっくりした。エコモという機械やスペインかぜの話も知った。たった2ヶ月で世界がめちゃめちゃになることもわかった。サムディに備える重要さも学んだ。そのために、まずは仲良よくすることだ。共通の敵に立ち向かうのに、今回、10ケ月を要した、ワクチンができた国から接種してするのはよいが、できない国は滅んでしまうのは困る。将来をコントロ-ルされてしまうのではよくない。うし年は「憂し」にならないよう、人と人をつなぐヒモ、紐帯を思い出してほしい。来年こそ、世界がつながり、コロナでぐちゃぐちゃになった距離を正しい状態にもどし、お互いが仲良く暮らしたい。学んだことは忘れてはならない。

きばっど 隠された常識 R2.12.21

昔物語、童話には隠された常識があるように感じる。たとえば、「大きなかぶ」という小学校で学習する国語の教材だ。かぶを引っこ抜くという簡単な話だが、登場する人物や動物の出てくる順番などに不思議な感じがした。ロシアの童話だと考えると、マトリョーシカ人形的な並びから発想したのではと考えてしまう。かぶが抜けないのであれば3番目にくるのは、息子かあるいは娘であろう。孫が来ること自体から変だ。ここに隠された常識があるのではと考えてしまう。

 こんび太郎や一寸法師では、子供に恵まれない年寄り夫婦が神様にお祈りして子供が授かる。本来ならありえないことなので、特異な子供として誕生するという設定がすんなりと受け止められる。孔子の誕生では父と母が「野合して」と書かれている。なんか驚く表現だが、これは、父と母の年が離れていて珍しい結婚という意味だ。「破天荒」と同じで字面だけではなかなかたどり着けない。

 徒然草の「ねこまた」には、かけ事好きな法師が飼い犬を猫また(猫が長生きすると化けるという妖怪)と間違えて、さんざんな目にあう話には必然性がある。今でこそアスファルトできれいに整備された街並みは当時は全然違う景色だった。書かれた時代は無数の小川が流れる湿地帯であった。真っ暗闇の中、慣れた道とはいえ、場所的にも何か出てきそうだ。法師のくせにかけ事している。やましい気持ちでいっぱいだ。猫又と思い込むから、転げて小川にはまり、かけ事で得た商品もずぶぬれになる。当時の人はこの地名を聞いたり、法師の名前を連想しただけで、このような話の結末が見えたわけである。

 かぐや姫の話では、昇天の時、帝に不死の薬を、翁と媼に形見の着物を贈る場面がある。着物を贈るのがこの当時の最高のプレゼントである。古着を始末したわけではない。自分の体の一部を残したようなものである。まあ、不死の薬は山で燃やされてこの世に残らないと矛盾がないように話が展開され、焼いた場所が不二の山つまり富士山になるというしかけだ。この隠された常識は鑑賞していく上で大きなカギになる。作者と読者の距離感の問題を読解という行為の中で考えていく必要がある。つまり、翻訳文学や古典などもこの部分をぬきにして鑑賞はできない。  多くの翻訳小説はキリスト教の素地をしっかりと押さえて読んでいく必要がある。また、レンガづくりと木材建築とは当然違うので、「アンネの日記」の隠れ家だって簡単に見つからない。日本と違う隠し部屋の構造も考えられる。日本の家屋にはあんなに気密性高くないのですぐに見つかってしまうだろう。何年も潜伏するのは難しい。「レーミゼラブル」の舞台のパリは、下水道が整備されている。革命の混乱の中、逃亡するにはこのことは大事だ。幾重にも常識の伏線があるのも事実だ。

きばっど 視覚化とは R2.12.18

コロナ感染防止に新たに示された5つの場面とは 「飲酒 大長 なし 狭同 切り替え」で覚えておくとよい。「大長」は「大人数で長時間にわたる」と言葉を足して、解凍(比喩表現)すればよい。これで場面が明確に浮かんでくる。

キ-ワ-ドで物事を整理すると、記憶の定着にも効果がある。

絵本を見て、こどもに質問するわけだが、どんな絵本が定着がよいのかを研究した人もいると思う。数を関係づけると、間違いなく記憶はアップするようだ。みなさんもご存じの「はらぺこアオムシ」では、毎日果物を食べるというくだりを実によく子供は覚える。一日目は1個、二日目は2個という具合に5日目まで進む。最後にアイスクリ-ムやソ-セ-ジなど、子供が好きな食べ物をたくさん食べる。数のおもしろさ、絵本の構造のおもしろさ(食べた果物には穴があいている)が満載だ。そして、食べものの名前がオンパレ-ドの最終日は全部覚えて大きな声で言える。ここまで覚えのも興味・関心のなせる技だ。

なぞなぞの構造も記憶力アップに効果的だ。「白熊のパンツ」という絵本では、いろいろな動物のパンツが出てくる。パンツのところだけの切り抜き絵本で、ぱっと見ると、だれのパンツかわからなくしてある。次ペ-ジまでめくると持ち主が分かる。カラフルだったり、おおきかったりと実に多彩なパンツが出てくる。なぞを解決しようとする子供の心理を実によくとらえている。

 「うえきばちです」という絵本はさらにおもしろい。のっべらぼうに水をかけるとめがでました。もちろん2つである。次にはがでます。はというが歯である。はなが咲きました。もちろん、花ではない。最後は、足や手が出て、鉢からいなくなる。そして、また、のっぺらぼうに水をかけると、目が出る。今度は3つである。こどもは大笑いして終わる。もちろん、こわがる子供もいる。おもしろさがことばを覚えた子供に新鮮に伝わる。花と鼻。目は芽、歯は葉とわかるとき、笑いが起こる。絵本の力はすごい。そこに自学自習の構造がある。

 仮説実験授業では、「授業書」と呼ばれる自作教材を活用した。実におもしろかった。切り込みが教科書と別である。こんな切り方もあるのかが楽しかった。ひょっとすると、笑いやユ-モアの中におもしろい授業のヒントがあるようだ。また、数学的に整理するのもよいのではないかなど、絵本に刺激されていろいろな発想がうまれてくる。実におもしろい。  視覚化というが、絵本は動いていない。キ-ワ-ドで構造化するとよい。つまりは、絵本のようにわかりやすくするということだと思う。筋は簡単に、対象は明確に、そして、ここぞという所では考えさせるように…。仮説実験の授業が得意だった同僚に聞いてみたいものだ。ところで、絵本は授業書になりうるのかと?たぶん、なるに決まっていそうだ

きばっど 授業の小技 R2.12.10

先輩の教師から習った授業の技はなるほどなあと思うことが実に多かった。机間指導の言葉でくくられるのだが、生徒の机の間を抜けながら,一人一人の学習スピ-ドやスタイルを見ていくというすご技には感動した。

ネタバレすると、資料を配る時、わざと枚数を違える。一列の数より少ないと列の後ろの生徒が「先生足りません」と挙手する。必然的に列の中に入る。「ごめんね」と言いながら、教師はプリントを渡しに行く。そのついでに左右の生徒のノ-トを見ていくという技である。ノ-トをきちんととる生徒は授業後半のまとめで指名しても良いし、逆にてげてげ書いている生徒には、突然、指名して注意を喚起するのもよい。授業の進め方を構想する情報収集である。

「あの生徒はこんな感じだよ」と生徒の評価を笑ってする先輩に驚いたものだ。黒板の前だけでは、生徒はなかなか見えないという教えだった。

 黒板に生徒の発表を書かせるのもおもしろい。代表が書いている間に残りの生徒の様子を把握する。真剣に書くのを見ている生徒はよいが、こそこそしているのは集中していない。また、熱心に黒板を写す生徒もいるが、構造的にまとめるので、キ-ワ-ドだけで良い。代表生徒の板書を見ながら、学習スタイルや視覚、聴覚優位なのかと認知スタイルまでもが観察されていた。生徒をよく見るチャンスであることは間違いない。

 単元テストや小テストの活用の技は今でも思い出される。小テストをまじめに受けると、単元テストの点数はアップする仕掛けが明確に作られている。当然と言えば当然だが、問題の中にどの程度、混ぜるのかというところにコツがあるようだ。そっくりそのままでなく、理解した者に点数が出る。努力すれば伸びるわけだから、意欲喚起に最高だ。

思い出して書きながら、若いうちにポイントを聞き、習得すべきであった小技がなんと多かったことか。教師の技は盗めと先輩に教えられたが、思えば問題意識が足りなかった。

 ノ-ト指導も点検をまめにしなさいと教わった。書く場所を指定して、そこにどれだけのものがメモされているかで、学習の定着度がわかるというのだ。自分でノ-トを作れるようになるまで指導しなさいとも教えられた。自学自習が身につくとか、ノ-トが教科書のかわりになると言われたが、なかなか、そこまでたどり着かなかった。ノ-ト指導一つからも教師力は発揮されるようだ。 

技はその人につくものだが、一般化もできるだろう。よい授業やヒントになる指導はぜひ積極的にまねてほしい。自分の小技として紹介できれば、成功だと思う。生徒たちがよりわかるように、よく見て、うまく動かして、生徒が自分でやれるようになる。ぜひ、そんな小技(すご技)を開発して、身につけてほしい。

距離が近いとは

 本校は生徒と教師の距離が近い。生徒数が少ないのであれば当然メリットとしてこういう状況が生まれる。その環境の中で、生徒の進路についての相談に積極的に関わっているかどうかである。中高一貫のよさは中学校から高校、高校から中学校の活動が見えることだ。また、いっしょに活動できることでもある。中学生にとっては未来の自分を見ていることになる。

 また、中高一貫の良さは高校の勉強を中学で意識できることでもある。つまり、目的やゴ-ルが見えると、意欲が高まる。見えるような工夫をぜひ考えてほしい。つながりを意識するには、中学で学んだ方法が高校でも通用するということが大切だ。中学3年生の今頃になれば、高校の教材をよく知った先生から、高校で習うものに挑戦したり、体験したりできるというわけだ。

本校の先生方は中高の免許をもち、どちらの授業もされるので、この点ではエキスパ-トである。高校でこれを習うのだから、中学校でこのあたりまでやってもよい。そんな発想でこれからの中3生の授業をアレンジしてほしい。国語で恐縮だが、漢文などはこれに応用できるよい例だ。四字熟語で高校漢文に頻出する逸話を語るものよし、実際の漢文を活用しても良い。「論語」の文章はシンプルなので、ものによっては中学3年でも十分学ぶことができる。日本のことわざと比較させるのもおもしろい。作文も結構応用がきく。文字数を絞ってタイトルや小見出しをつけさせれば、読みのトレ-ニングだ。200字の250字のと、書かせてみると、小論文のパ-ト練習になりうる。国語のように発達段階でらせん的に深まる教科はこんな方法も考えて良いはずだ。

それぞれの教科の特性を考えながら、授業の中で高校と中学校の間をいったりきたりができそうな気がする。教科学習への意欲付けは、内部進学の意欲につながるのではないか。まずは学問の楽しさ、そして、追究のおもしろさ、身について実感などが喚起できそうだ。先生たちの腕の見せ所だ。

過去問をやると、その学校の求める生徒像が見えてくる。面接練習や小論文指導に関わらせていただいて、とてもおもしろい発見があった。「自己肯定感が低い。自分の良さを明確に言えない。志願動機に熱がない。」となど、ちょっと考えると、マイナス要因となるものが目白押しである。確かに自分が見えにくくなっている昨今だが、探せばよいところは必ずある。本人たちに自分をプラスに価することを教えたい。「あれができない、これもできない、成長がない、変わらない」と思い込んでいる。「こんなことまでできるようになった。ここのところは伸びた。」と成果や可能性を評価したらどうだろうか。人と人の距離感がうまくとれない今こそ、先生が生徒に語って「よいところ」も面接で書けるように言えるようになってほしい。コロナ禍でも育英館は一人一人に寄り添う学校でありたい。