きばっど レジリエンス R3.2.25

この言葉の意味は、困難な状況から立ち直ること、形が変わってしまったものを元通りにすることである。この言葉は昨年、次のような記事で有名になった。宇宙飛行士の野口聡一さん(55)が10月31日に国際宇宙ステーションに向かうのを前に記者会見し、搭乗する機体に「レジリエンス」と名付けたことを明らかにした。「困難から回復する力」等の意味があり、新型コロナウイルスで苦しむ世界が元に戻るための力になりたいとの思いを込め、搭乗員全員で相談して決めたという話だった。

 何を元通りにしたいのか、何を回復させたいのか。考えてみると、コロナのおかげで、人と簡単に会えなくなった。心の距離が本当にわからなくなった。少なくともこの部分だけは元通りにしたい。行事でも、今まで通用していたことができなくなった。「時間が長くなるので必要最低限とする」を理由に、感謝のことばも言わなくて良いとされた。儀式の中の来賓あいさつは本当にいらないのだろうか。無用の用の値踏みをしないままに、すべてが省略された。体験的な行事が減った。経験値の少ない世代が誕生することになる。

 今年はあちこちで新一年生パニックが起こりそうだ。津波的な被害を受けると、学校が崩壊する。高さは10メ-トルになるのか、それ以上なのかはわからないが、「体験不足からわからない、知らない」の津波には、それぞれで連携して受け入れ準備を整えたい。この世代の関わる結果に今後も大きく影響するだろう。因があり、縁があり、果があるという生成の仕組みで、因となる出会いが極端に制限され、当然、育てるべき縁も減少した。結果が変わるはずだ。その結果が原因となり、次が始まるとすれば、さらに結果は違ってくる。

 よい因を作り出すのに貢献できるのは多様性である。強靱性、復活力があれば、レジリエンスできる。このレジリエンスは物理学で使われた言葉でもある。ぱんぱんになった風船を押すと、その部分はへこむが、その部分を押し返して、もとに戻そうとする力が働く。この押し返す力、回復しようとする力のイメ-ジである。一見、因がなくなって見えるが、逆になくなることが因になっているようだ。コロナ禍中、行事や学校生活を成し遂げた経験にこの力を感じる。学校、保護者、生徒、旅行業者の連携があり、無事に成し遂げられた研修旅行、部活動の遠征である。そこにはしなやかに対応する力を感じる。

現在、世界のだれしもが苦境にあることは変わりない。だからこそ、それぞれで知恵と工夫を出し合って、生きていく。回復する力は同じようで違う。回復する力には新しい可能性があってよい。押し返すだけでなく、新要素のある、押し返す力になってほしい。経験値さえ補えれば、可能性を抑える要素はない。

きばっど 郵便局での発見 R3.2.20

みなさんは切手のデザインがおもしろいのにお気づきだろうか。印刷技術の格段の進歩は実におもしろい切手を作り出している。絵本、食材、マンガ、観光場所などきりがない。「ム-ミン」はもちろん絵本「金魚逃げた」まで本当に楽しい切手がそろっている。有名なアニメとのコラボは何も郵便局でなく、マクドナルドやロ-ソン、シマムラと企業名も次々に出てくる。一つのものでなく、複数がミックスされたおもしろさがある。これを見ていると、共通テストに出ていた問題にあるミックスやコラボにまで考えがたどり着く。その教科単体の発想で解決できない、解決しにくい出題の存在を感じる。その意味では、今回の共通テスト攻略にはかなり感度のよいアンテナの必要性を感じてしまう。

社会にあった「天橋立」はブラタモリの正月特集で取り上げられていた。「観光地としての天の橋立を訪問するのに便利である」と、「古代の海上輸送を中心とした物流や漁業で必要な港に近い」は、時代による必要性の変化である。過去の中心地は、国分寺の跡もある北側(橋立の根?)である。ところが、京都からの観光客を考えて作られた駅は南側(橋立の先端)である。駅から歩いて橋立まで行く。橋立に立ちたいので途中に橋もかけられる。設問の中にあった「観光を考える」は、現在の観光立国、日本にはタイムリ-な発問である。

国語の問題は妖怪に関する考え方の変遷を縦糸に、人間との距離感、あるいは人間という存在を横糸に書かれた随筆が出題された。ゲゲゲの鬼太郎や妖怪ウオッチなどに出てくる妖怪は、新しいとらえの妖怪である。身近になりすぎて、かわいい。ポケモンもだが、これらは人間化していく者なのかもしれない。その意味では妖怪よりも人間が怖い。いつ人間でなくなるのだろうか。だれにもわからないから怖い。もう、すでになくなくっているのかもしれない。 国語の「孟子」はマンガでもよく見る一節である。「おや、あれっ」と思ったら、情報ソ-スにとらわれず、マイ知識に変換できる柔軟さが大切である。課題意識をもち、生活していると、かなり取得することができる。つまり、役立つ知識獲得のチャンスは、今も昔も日常にある。朝ドラも、大河も、周辺知識があれば、本題に重ねて見れるとその分おもしろさは増す。料理を食べるのも、その制作過程や素材の知識があると味も違うようだ。食リポのうまさは食べた料理の数に比例して当然だ。食を楽しむと集めた知識の総量分はうまさに変換されると推測できる。さて、朝ドラのちょっちゃんはオロナイン軟膏の宣伝看板で見た浪花千栄子さんである。また、大河の「麒麟が来る」には、安土城の雰囲気を出すために240畳といわれた畳の間もセットされた。天皇が月見と称して光秀と語る場面には、月を映す小道具として「角盥(つのだらい)」が準備されていた。これらのトリビアを知ると、本編が何倍にも楽しめるから不思議だ。

きばっど 数学の夢 R3.2.12

ケ-キの8等分は本当に簡単なのか。ケ-キの上には多様なものがのっている。イチゴやリンゴからウエハスやチョコレ-ト、食べられないけどサンタさんやヒ-ロ-人形もある。これらも含めると、8等分はなかなか難しい。

同じように、イコ-ルの左辺と右辺は「同じ」と習ったのだが、やはり1+1=2と2-1=1は同じに見えない。計算すれば同じだろうが、計算しない状態ではまったく別物だ。仏教では、物事の成立は、まず「因」があり、「縁」があり、「果」として定まると説明されている。「縁」とは関わりである。結果はこの縁によって決まる。無数の縁の関わりによって、結果は変わってくる。縁の関わり次第で、まったく、別物になる。「直線に幅はない」とも習ったが、交渉ごとで「よく線を引く」と、人によってはこの線に幅のある人がいる。どこまでよいのか。悪いのか。まるで一休さんの「この橋渡るな」の世界である。幅がないのにはずなのに、端を渡れる直線があるからおもしろい。

 数学の数の世界から図形の世界まで、紙にメモらずに頭の中でくるくるとまわすと時間が経つのを忘れる。ある直線に垂直な線を引く時、その直線上に中心をもつ円(無数にかけるが…)の2つが交わる点を結んでできる直線は、ある直線の垂線となる。これを平面でなく立体的に考えると、無数にかける直線は円に見えてくる。実におもしろい。 0という存在も考えれば考えるほどおもしろい。0があるとそこに数字を入れられない。1と10と100と区別ができる。01、001、0001と表す数を創造したら、これは間違うなあ、わかりにくい。だから、小数点かと納得した。10000000000は書くと長いなあ、どうか表現するかと考えるが、0が並びすぎてわかりにくい。だから、指数があるのかと納得した。数学は本当によくできている。いろいろと考えていくと、実におもしろい。数学者は、数の謎を分かりやすく、みんなに語ることのできる人たちだ。しかし、ケ-キカットや端を渡る話ではないが、不確定、数値化ができない要素があると一般化、法則化できない。単純にすれば美しくなる。そこには何も入らないの「0」が数学のすべてを象徴している。さて、頭がさえて眠れない冬の日はふとんの中で考えてみるのも楽しい。立体をカッティングしたり、グラフを書いてみたりと頭の中なら定規もコンパスも、ケシゴムもいらない。ケ-キは難しかったが、リンゴならできる、みかんも大丈夫そうだ。枝豆は数えればOKだが、こんな話を思い出した。「豆を食べたい」と子供たちが母親におねだりしたら、手ですくって、姉と弟の手のひらにのせてくれた。「お姉ちゃんが多い、あんたが多い」とケンカした二人に母親は「数えてごらん」と言った。豆の数はちょうど同じだった。母の愛が数学的にも証明されたこの話の作者は坪井栄さんだったと思う。

きばっど まかない料理 R3.2.10

昼ごはんを取り上げた番組で見た食品会社のまかないの話である。宮崎出身の若者が今年初めてまかないに取り組む。もちろん、ふるさとメシということでチキン南蛮である。解説は、まかないこそが料理の修行と語り、仕入れから調理、盛り付けまで、120人分という半端ない人数に取り組んでいく様子を紹介する。南蛮の鶏肉は下ごしらえが大切らしい(あのジュ-シさはここにあったのか)。以前のまかないの反省にたち、下ごしらえやソ-スに改良を加えて、今日の献立を作り上げていく。まかないに全力で取り組むことに感心する。そういう場で先輩たちから評価してもらえることもすばらしい。常連さんはそのチャレンジや粗削りの魅力を知るからこそ、まかないメシを注文するのだろう。

さて、教育現場で「まかない」にあたるものは何だろうか。学校では雑務なんて呼ばれるものの中にあるようだ。教師は授業だけが仕事と思われがちだが、学校全体が教育の場と考えると、見る目を養ったり、教室環境を整えたり、保護者と語ったりとムダなものは何一つない。教師の腕をあげるなら、まず、生徒を見る目を鍛えることである。この目には複数の視点が必要だ。デ-タとして見るなら、提出物を忘れない子を把握するより、忘れる子を、その回数を把握しておきたい。また、そのときの表情も把握したい。生徒の褒められて喜ぶときをおぼえておくと、褒めるタイミングもまちがいなくわかるはずだ。

転入者や初任者がまず任される清掃場所は、トイレや焼却炉(もうありません)などである。学校の一番汚い場所を担当すると、その学校のことがよくわかる。「ゴミの分別ができない」、「ゴミを持ってくる時間が遅い」と、学級や作業担当区域の生徒や教師の意識がよくわかる。トイレ掃除も同じだ。「水を流して、はい終わり」の掃除をする生徒たちは、試験の取組も甘い。点数を取れの上げろと言われても、清掃の態度と同じで努力しているはずはない。これらの場所は学校の本音が現れる場所なのである。見る目を鍛える絶好の雑務だ。 修学旅行は学級を幾つかのグル-プに編成して、実施される。それぞれで係が割り振られ、教師にも担当が決まる。なぜか自分はレク係が多かった。この係は企画や進行と雑務そのものであった。会順、マイク位置、生徒の並びと考えることは多い。その上、生徒たちの要望は無理難題、教師のしめつけも厳しく、両者の言い分をうまくまとめるのも一苦労だ。夜の部の本番を盛り上げるために知恵を絞る。この経験は授業、学校行事でも活きるようになるから不思議である。「若いうちの苦労は自分から…」は「まかない」を考えいくうちに少しわかってきた。自分の仕事に何がどう役に立つのかはだれにもわからない。だからこそ、経験は貴重である。与えられた雑務を全力でやってみて損はない。やってみたことはなぜかあとで役に立つことが多い。

きばっど やり抜く力 R3.2.1

令和3年の学園スロ-ガンは「やり抜く力」であった。そこで、「やる気、やること、やり抜く、やりとげる」の流れで再度、考えてみた。動機があり、対象がある。そして、行動が起こり、結果が出てくる。この構造を大事にしたい。「何をやり抜くのか」と人には動機が必要だ。お金や名誉もだが、教師は、教育者として果たすべき使命がある。教師になろうと思い立ち、先生と呼ばれた人なら、生徒のためにがんばろうと思うのは当たり前である。やり抜く対象は、「生徒のためにできることは何か」である。将来役に立つ力をつけるには?ととことん考えてみたい。「生徒の面倒をとことんみる」には大いに賛成である。

しかし、どんな目標でも「やり抜く」は大変だ。この継続が難しい。なかなできないから「3日坊主」なんて言葉もできるし、よく使われる。人の世は継続できないことが多い。そこで、少なくとも「結果として変わるまで継続できる」であれば、当然、成功なのだろう。変われなかったら、変わらなかったら失敗だと考えるのなら、簡単な理屈で、「成功するまで継続すればよい」である。

成功者に共通する資質は、「あきらめない」である。あきらめなかったら成功したとなるようだ。確かに失敗するたびに、人はいろいろなことを学ぶ。失敗を続けると、成功するのが近づいてくるような気がする。楽観的すぎるだろうか。自分との距離がつかめない時は、全力でぶつかってとりあえず失敗してみるのもよい。まぐれで成功すると、そこで達成された気になる。これでは、自分のものになっているとはいいがたい。なら失敗もよしとしたい。

 お金は使うとなくなるが、学んだ知識や身につけた技術は決してなくならない。使えば使うほど改善されてうまくなり、確かになり、自分のものとして身につく、いろいろな場面でも使える。その意味では一生の財産である。また、求めて学んだ使える知識は、次の使える学びを創造する。有効な学びを知ると、もっと深く、もっと広く学びたくなる。名人や達人には継続が欠かせない。  「やりぬく力を生徒たちにもつけてください」と年頭の講話であったが、やはり、こればかりは「隗より始めよ」で教師がやってみせなくてはなるまい。教えることは学ぶこと、学ぶことは教えることで学ぶ力と同じだ。やりぬく力はどんな力とコラボさせるとよいのか。やり抜く力は、成功する人のコンピテンシ-(行動特性)である。キャパが足りないというが、その前の意欲や継続などのメンタル部分はさらに大切である。やり抜く力をつけるには、成功体験の積み重ねや目的意識の明確さなど、当たり前だがそこを避けては通れない。生徒を正しく評価できてこそ、この力を育てられるに違いない。まずは、成功体験をイメ-ジさせておくことだ。また、取組や過程をほめることは失敗にくじけないために必要だ。それは成功するまで手を変え、品を変えてでよいと思う。