きばっど  0と空から評価の話へ   R3.4.28

 0にはものを入れられない。しかし、空にはものが入るという話だ。簡単に比喩すると、コップにふたがあるかないかだ。0はふたがあり、あけられない。そこに0というふたつきのコップがある。しかし、空はふたがない。ものが入る。

 0の発見という話の中に、0と書いておくと、そこには他の数字は入らない。0の意味はここにある。-1と0と+1と数直線で表されると説明を聞いた時、なるほどと納得した。すべては空「くう」であるという仏教の教えに出てくるものと少し違う。空(から)だからそこにはものが存在する。それは0と少し違うという話である。

 吸って吐いて、吸いはじめると、肺の中に空気が入る。「吐いて」と空気を吐き出す。ずっと吐いたままにはできない。吐いた瞬間と吸う瞬間の間に0がある。数直線的な話である。しかし、プラス方向とマイナス方向の中間と考えると、物事の移りかわりを考えるのに0は便利だ。空(から)はものが入るので、肺の中を考えるモデルにはよい。吐いての肺は空っぽだ。

 もう一つ空っぽの話をすると、要素を一切もたない空集合は、他の集合と違うものの、集合には間違いないが、まさにからっぽである。空集合は要素として同じものが存在しない。つまり、だれからも必要とされないとのたとえにもなる。世の中に空集合と自らを呼ぶ人がいると、すれば人間としては悲しい。人間という文字を考える限り、人と人の間に存在するという定義であれば、空集合と考える人間は存在しえない。

 心を空っぽにできるためには、空っぽの空間が必要だ。よくサンタクロ-スがいるかいないかを論争するとき、「いる」と信じている子供に共通してみられるのは夢をもてるということだ。サンタクロ-スがいないとわかってきてもいると信じた思いは消えない。サンタクロースの部屋には今度は夢が住んでいる。話はあちこちとなっているが、0と空の違いがなんとなくわかった気がする。

 加点、減点の評価の話では、なかなか0が難しい。可もなく不可もなくという存在なのだろうが、0と評価するのはいかがなものか。あれも0これも0の人間より+や-で話題になる方が人間らしい。空欄のままであれば、忘れたのかと疑われる。できれば、可能性や許容量を評価したほうが良い。期待値評価はどうだろうか。人の見方として、評価者が評価されるかもしれない。(笑い) 先入観をもたずに人を見るはなかなか難しい。ましてや評価するとなると、結果や実績にこだわってしまう。その過程も評価するというが、顕著な結果に基づくと評価する方は失敗がない。人を育てるには取り組む態度や意欲も加味したいものだ。もっと掘り下げると、「仕事を楽しめるか」「考え方は楽天的か」などとその人の空の部分の大きさを気づけば結構おもしろいと考える。0と空の話もここまで来てしまった。「評価はかくあるべし」と終わりにしたい。

きばっど  縁を育てる R3.4.22

 人生のおもしろさは因であり、出会う縁を育てられるかどうかということだ。愛 因 運 縁 恩 果 と50音図のアイウエオカの音を漢字に当てはめるとこの6文字で人生を語れてしまうからおもしろい。教え子の人生や経験を聞かされることも教師のお役目の一つだ。自分の人生の評価を先生に頼むところがかわいい。まず一人目の生徒の話。学級の委員長と剣道部の部長をした明るい女の子も20歳になり、「国語教師になりたい」の夢を語りにやってきた。採用試験にチャレンジするという話を聞いたが、合格の話は聞けなかった。そうしているうちに4~5年過ぎた。東京で「日本語教師の勉強をしている」の手紙をもらった。ある日、電話が来た。語学学校の校長にひどく気に入られて、いよいよ外国に行き、日本語教師になれるという明るい声だった。それから2年たち、今度は手紙が来た。きれいな南の島の写真と「日本人は私が一人」という文面がわかる集合写真が一枚入っていた。「先生、私は天国に一番近い南の島で、みんなから愛されています。日本語を教えたり、剣道を教えたり、幸せです」その次の手紙は結婚の報告だった。島を訪れたフランスの海軍士官と結ばれたと書いてあった。「信じられないけれど、今はフランスで暮らしています」この教え子の人生に、驚きながらも「すばらしい」の評価をしたのは当然の話だ。

 国語教師になりたいから始まった因は、多くの人との出会いを作り出した。彼女が精一杯がんばる姿が日本語学校の校長との縁を育てたようだ。結果として、日本語教師として外国の島で活躍するという因をつくり、彼女はそこで出会う人との縁を大事にした。それがその国の人々から愛される縁となり、みんなの信頼を得る結果を生み出した。また、それが因となり、生涯を共にする人との出会いとなった。この話の間に愛、運、恩もちりばめられていると感じる。私の人生は平凡であると語る人がいる。そんなことはない。よく考えてみれば、これらのキ-ワ-ドが無数に連なっていることに気付く。まるで、2進法の数字の列や遺伝子配列さえも連想してしまう並びである。人生の面白さはここにあり、並びが少し違うだけでずいぶん違う結果が出てきそうだ。しかし、マイナス思考で後ろ向きにとらえる人とプラス思考で前向きにとらえる人の配列は違うのだろう。要素は同じでも違っていくのだ。 他人から愛され、大事にされる人には、縁をつなぐ何かがあるのかもしれない。また、配列を作り出す要素もあるのだろう。類は類を呼ぶもこの配列の並びがなす業であろう。自分の人生だ。因をどうとらえ、どう活かすのかが、縁をどう育てるかのかぎとなる。縁がうすいとか、ないのは、よく考えてみると、努力が足りなかったことに気づくかもしれない。縁は自分で関わり、育てなければ果にはならない。少し遅きになってしまったが、今頃わかった大切な話である。「縁は異なもの、味なもの」と簡単に言えなくなったようだ。

きばっど 先手挨拶励行   R3.4.15

 新入社員研修で礼儀作法が重視されるのは、会社のイメ-ジがあいさつで左右されるからだ。食品を扱うお店で、清潔な服装や身なりでも声が小さく暗い挨拶ではおいしさにも響く。賢い人なら、あいさつからすべてが生み出されると知っているに違いない。まずは、あいさつから…

 鹿児島育英館の卒業生に会って話をする時、いつも感じるのは挨拶がきちんとできることである。授業を受けたの、通知表をもらったのと、恩師の先生ならなるほどと思うが、見ず知らずの校長にきちんとあいさつができる。そして、会話の中での言葉遣いにも敬意が意識されている。半端ない感じの良さだ。

 面接指導でよく言われるのが、まずは「あいさつ」だ。かねて、頭も下げない、声も出さない生徒が面接の時だけよくできるはずがない。成績はよくても面接で落とされることもある。採用試験は「人を選んで落とす」試験でもある。その意味では毎日があいさつの練習である。社会に出た時、いろんな人から「よい人」と評価される最低限のマナ-が「あいさつ」である。だから、面接でも評価される項目に入っている。はやり歌の「うっせえ、うっせぇ」ではすまされないのが現状だ。面接官も人間である。好き嫌いは出るだろうし、その感情に左右されるだろう。しかし、気持ちのよいはっきりしたあいさつをされて、「この人はうちの会社にはいらない」と考える担当者はまずいない。21世紀の今でもまだまだ、やはり人は見た目が100パ-セントであるようだ。

あいさつには場所、目的、相手などを考えることが必要だ。校庭で部活動をしていて、お客様に挨拶するのであれば、大きな声で、姿勢を正し、脱帽してあいさつするのだろう。会議中の職員室の前でのあいさつは同じではいけない。少なくとも声の大きさには注意すべきだ。相手が年上の人や来訪者であれば、「おはようございます」の一つにしても末尾までしっかりと言いたい。そう考えながら挨拶することが、TPOを考えるということだ。たかが挨拶、されど挨拶である。「合格して、採用されて…」と夢に近づこうと考えるなら、その願いを果たす一番の方法はあいさつであると割り切りたい。これは最低、育英館で身につけて卒業してほしい。学校は練習する場と割り切って挨拶をさせたい。先手挨拶励行である。あいさつは人と出会う時に、忘れてはならない礼法なのである。これがきちんとできるかどうかで後々のつきあい方も変わる。まさにスタートに必須なファストインプットである。プットするならいい感じで出会うことだ。
 心をひらくあいさつをだれよりもはやく行う。世の中まだまだしっかりとあいさつできる人の印象が好い。あいさつができるだけで得する。元気よくあいさつできる人は面接もうまくいくに違いない。育英館の三本柱であるからには、卒業までに、きちんとできて当たり前、人からほめられたら一人前、夢実現への前倒し貯金である。

きばっど 主人公は君だ R3.4.2

 「自己を見つめる力」について考えてみたい。自己をどう見るかでその人の生き方も変わる。自分とは何かは哲学的な問いのようであるが、その問いを発することに大きな意味がある。自分がよくわからないのでは、なかなか夢の実現に踏み出すこともできない。つまり、現在の位置がわかってこそ夢までの距離もわかる。人は「比べること」を通して自分と目標との距離を理解することができる。自分はどこにいるのかは、他人や過去の自分と比べたりして、把握しようとする。これらをすべて「自己を見つめる」行為としてとらえたい。過去の自分から考えてみると、何か一つでも変われば、どれだけ成長したかを感じることができるはずだ。

 しかし、日常の生活の中ではなかなか自分が見えない。つまり、見失っていることも多い。ひどい時は、目的をすっかり忘れてしまう。「喝」という言葉は自分を見つめるスイッチを入れる言葉である。同じ効果のある言葉として、「主人公」の声掛けをしたい。自分が主人公だと考えて、「私は~」「僕は~」と第1人称を意識できるかという話だ。人生は、簡単に言うと、僕や私の物語である。すべてにおいて主体は自分である。他人のドラマに友情出演しているのではない。自分が関係しないで物事は進まない。だから、「主人公は君」である。

 小さいころ、夕ご飯を食べておなかいっぱいになり…、気が付くとふとんの中にぬくぬくと寝ていた。机の上が散れていてもいつのまにか整理されていた。今考えると、母が運び、母が片づけたのだろう。今はふとんに寝かされることも机の上がかたづくこともない。当たり前といえば、当たり前である。何一つ、自動的に、片付くことはない。僕が関わらないと身の回りはいっこうに変わらないし、話はまったく進まない。主人公たるものはぼ-っと生きていてはいけない。水谷豊のドラマの主題歌、「人生紙芝居」では、「そして、だれもが主人公」と歌う場面があった。当たり前だと思っていたが、そう言わないとわからない場面がある。人は毎日の生活に流されて自分の立場を忘れてしまう。 昔話を一人称で書くと実におもしろい。国語の時間では視点を変えて物語を書き直すことがある。視点が変わると物語が変わる。「主人公」の掛け声は、一人称の視点を忘れてはならないということだ。どんな小さなことも自分でやらない限り終わらない。「自分のことにしなさい」という話だ。人には責任があるし、仕事から逃げてはいけない。他人事にしてよい仕事はできない。今の自分に納得できているかを問いかけるべきだ。その意味では自分を見失うことのないように、「主人公」と問いかけたい。自分を意識すると、取組を深めたり、やる気を出したりが可能になる。名前を呼ばれると、人は生き返ることがあるらしい。危ない場面では「呼びかけてください」とお医者さんから言われる。呼びかけにはまちがなく効果がある。「主人公は君だ」の呼びかけを続けたい。

きばっど 縦割り無言作業 R3.4.6

 作業は無言でするがよい。作業はみんなでするがよい。みんなでするなら先輩後輩でするがよい。育英館の伝統である縦割りの作業は、お互いが切磋琢磨する「いもこじ」とよばれる形そのものだ。作業は心を磨く行為でもある。

 「清掃の十徳」の話や掃除で悟りを開く話など、作業が人間形成に与える影響は計り知れない。シュリハンドクというお釈迦様の弟子は、他の者に比べると特段優れたものはなかった。それを知っていたお釈迦様は彼にひたすら掃除をすることを行とするように語った。作業をよくよく考えてみると、単調であるが奥が深い。なにしろ、きれいにするにはその場所がどうあることが一番よいのかを考えるし、どんな道具でどれくらいやれるのかも考える。それから彼はいかにきれいに掃除をするかをひたすら追求した。そして、悟りを開いた

 作業には心を清める効果がある。手が汚れると心はきれいになる。きれいにしたいと思う気持ちが手を動かし、チリを集め、汚い所をふき取る。そうすると、手も雑巾も汚れる。もちろん、雑巾はきれいに洗えば問題はない。作業の時間が進めば、進むほど、心はきれいにしたいと思う。熱心に取り組むので手もずいぶんと汚れるに違いない。ここをこうしたい、あそこもこうしたいと無心にそれだけを追求すれば、雑念は入らず、収集して悟りも開けそうだ。

 この作業を伝統にしている学校は多い。ただし、作業の仕方を教える学校は少ない。家の掃除は掃除機が主流で、学校はほうきである。家にはルンバもいる。もちろん、玄関掃除に、校長室、多目的室に音楽室とシュリハンドクではないが、場所によって用具もいろいろだ。だから、シユリハンドク並みにがんばれば、まちがいなく、お掃除のプロにはなれるだろう。生徒たちで話し合って作業の仕方を作り、今日の作業の手順を確認しあう。その流れをくりかえし、月一程度で評価して改善すれば、作業のレベルはめきめき上がるに違いない。 外国では清掃をなりわいにする人がいることから、学校の掃除はない国もある。日本は違う。日本文化は自己完結型である。自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければならない。サッカ-のサポ-タ-が応援の場所をきれいに片づけて去る姿が取り上げられた。自分たちが応援した場所は自分たちで片づける。これが日本人の当たり前である。しかし、日本人は他人のところまでは片づけない。だれも見ていなければ、ここで終わりだ。ところが、他人の目を気にする文化なので、報道されるとまわりまでも片付ける。そう考えると、同じ片づける行為でも場所によってちがう気持ちでかたづけている。日本人の清掃にむける思いを考えると、半端ないことに気付く。永平寺の階段はよい例だ。僧たちの何百年にもわたる拭き掃除は、堅い杉板の階段さえも見た目にわかるように中央がへこんでいる。掃除への思いがものの形までも変えてしまっている。縦割り無言作業は、立派な修行である。