きばっど 非認知能力を育てていた裏カリキュラム  3.6.22

 非認知能力の定義とは、新学習指導要領では「学びに向かう力、人間性等」とか、キァリア教育のめざす「人間関係形成・社会形成能力」「自己理解・管理能力」とか、多様な要素が有り、実にわかりにくい。研究者も大変だ。

 この能力は学校の裏のカリキュラムで育てられたという話をしたい。学校では教えなかったことという本が出ている。けっこうブ-ムになっている。失礼だが、計画的に教えなかったと言い直してほしい。学校にはチャンス指導というものがある。これで、忘れ物(前段階の学校で教えられなかったもの)を取りに返している場面は多々ある。そういうチャンスや教師に恵まれなかったというのが正しい表現である。実際のところ学校では非認知能力の開発にこの裏カリでかなり貢献していたのである。

 一時期、下校クラブというのが流行した。勉強時間を確保するために部活動は不用という考え方である。これは実に危険だった。裏のカリで学ぶべきものが全部落ちてしまう。自分の経験から考えると、部活動を3年間継続するのはやり抜いた経験として実に大事である。下校クラブでは、苦しくても物事に逃げずに向かう力を体験的に学ぶチャンスを自分から捨てていることになる。

 学校行事もそうだ。文化祭や体育祭に真っ黒くなり、勉強なんかそっちのけでがんばる生徒を低く評価する傾向がある。確かに、学力をつけるには時間的な面で不都合はある。しかし、そのエネルギ-は勉強に転嫁可能である。実際、3年の7月まで部活動に打ち込んだ生徒たちが、夏休みから勉強をはじめて、12月にはすばらしい伸びを示し、受験に成功している。「やりとげる、うちこむ」は何を対象としてもよい。勝ち負けにこだわらず、完全燃焼するべきだ。

 非認知能力は人生にどう向かうかである。その最たる手本が教師である。教師は非認知能力の塊であってほしい。先生の背中から学ぶである。とりもなおさず、その人の生き方が反映される。先輩の話で悪いが、地学実習で山にこもり、化石発掘を続けていた彼は、一人テントの中で三国志を読んでいた。教科は理科でも、ここぞの時は人生論を語る。鹿児島弁で最後に念を押す。「じゃっどが」正しいものは正しい、やってはいけないことは絶対にやらない。実にシンプルだが、よく伝わる。教科の魅力と人間の魅力は、化石と三国志である。こんな教師の言葉や背中が生徒の非認知能力を高めていくのかもしれない。  魅力ある教師に共通するのは、「夢を語る熱 夢に向かう姿」のようだ。青年期の理想は自分を変える大きな力だ。そこで、出会う教師には必然的に輝いてほしい。「涙と汗は君を裏切らない」と真正面からいえる教師でありたい。無理でもそう演じることだ。この時期の一生懸命は一生涯の宝だ。非認知能力を育てるカリキュラムは一人一人の教師の中にあると私は信じている。小学校の生徒は好きな先生の一挙一動がお手本だ。じゃ、中・高生徒はどうなのだろうか。

きばっど  育英館にうまれる新生児たち  R3.6.11

 育英館という学校社会に今年生まれたばかりの子供たちがいる。よちよち歩きもいれば、けっこうおしゃべりもいる。なかには乳離れができず、夜泣き、離乳食を食べずに舌で押し出す子など、やりたい放題である。生まれたばかりの赤ん坊じゃしかたない。子育てした人ならなるほどとわかる例話である。

 そう考えると、だれもが新しい社会に生まれ、すくすく育っていくにはなかなか大変である。今まで育った、適応した環境を離れ、何を好んでまったく別の世界にやってきたのか。「中1ギャップ」は教師側からの視点で、生徒にとってはギャップどころか、まったく、別の社会にやってきた赤ん坊なのである。ギャップは当たり前、全部が見るもの、聞くもの、ギャップなのに今更どれをいうのかと言いたくなる。赤ん坊がしゃべれたら開口一番こう言うだろう。

 生まれたてには「育てる」の観点で、しばらくは手をかける必要がある。家庭と学校が協力しないと、この赤ん坊はうまく育たない。赤ん坊という言葉を使ったのは、社会性がまだまだ育っていないという前提である。生まれたてだから、わがままし放題。自分が心地よく育った子宮とは大きく異なる世界へ誕生しているから無理はない。昔は、あいさつや言葉遣い、礼儀作法は身について生まれてきた。現在は、培われたものがうまく機能しないと、親が恥ずかしいとか、失敗したとか、思い込んでしまうようだ。まだまだ成長の途中である。子供を信じてもう少し情報を出すべきだ。包み隠さず、教師と協力してよい子に育てるという姿勢をもってほしい。親と教師のチ-ムで育てることが一番だ。

 「教師は5者たれ」といった人がいるが、今後は「育てる」という要素を強く意識してほしい。「これぐらいはできるはず」と見るより、「まだ、できないのだ」と考えて育てていきたい。出身校からの申し送り事項では見えなかったものも2ケ月も経つと次々と見えてくる。さて、この子をどう育てることやら、個性を尊重しながらも、悪い芽は剪定をしていかなければならない。がまんや忍耐の活動は本人を強くするから、ある程度は経験させたい。「褒めて伸ばす」は一つの教育論で有り、場面や発達段階や、習得と導入期では別の方法を考える必要がある。できた点を明確に評価し褒めることと、本人の狎れによる失敗を戒め、たるみへの注意はきちんと指導することも必要だろう。  新しい物語は始まったばっかり。うまく育てて、「先生ありがとう」の感想を聞きたい。こんなふうに育ててほしかったと言われても、「はいそうですか」と言える親はいない。ある年齢までは親の影響があるたとしてもその先は自分で決めることだ。「育てる」にゴ-ルがあるとすれば、「自分から育つ」に変わるときだ。知らないうちに自分で決めて、自分で歩いていく。よくよく考えると、ある時期で親の責任は終わり、そこから先は自分の人生だと気づくはずだ。

きばっど  生徒の横顔  3.6.29

 5月16日、バレエを市民文化ホ-ルで鑑賞した。コロナ禍ではあったが、感染症対策の上での開催だった。コンサ-トなどもなかなかのご時世だからか、観客はずいぶん多かった。ドンキホ-テを取り上げた3部構成の舞台であった。この1部と2部に本校生徒の2名がプリマ(たぶんこう呼んでおかしくない)で登場した。踊りのことはよくわからないが、回転、ジャンプ、静止と体の動きをコントロ-ルできるテクニックにすごいとしか言いようがない。

 ドンキホ-テの物語を縦糸に、恋人同士が駆け落ちをして、無事に結ばれるという話の横糸で作られていた。もちろん、ドンキホ-テはよく知られた話だから、彼のこっけいな話がベ-スになっており、コミカルな動きも随所に盛り込まれている。恋人同士のバレエに見られる愛情表現とともに、ドンキホ-テが花嫁候補にもちょっかいを出したり、あこがれの姫にデレデレしたりとおもしろい動きには原作の味がうまくミックスされていると感じた。

 ただし、バレエ作品なので、踊りの見せ場がやはり多い。喜びの表現や愛のかけあいなど、ダイナミックさと美しさがうまく溶け込んでいる。テレビで見るのと違うライブで味わう本物感がたまらない。主役級の踊りはうまいのはわかるが、それを支えるみんなの踊りもなかなかである。手をわっかのようにあげ、背伸びをするポ-ズをキ-プするのも本当に大変だとわかる。赤や黄色という色鮮やかな華麗な舞台にはしばしば目を奪われた。登場人物の衣装は華やかである。建物や自然もヨ-ロッパを感じさせるような設定だ。ドンキホ-テだから、オランダのイメ-ジか?それにしても一つ一つが目の保養で美しい。

 とりわけ、バレエを踊る女子生徒の姿にびっくり、学校生活で見かける姿より一回り大きく見える。舞台の上で堂々と踊り、それだけ役になりきっていると言うことなのだろうか。かねての大人しい姿からは想像もつかない大胆な踊りである。ゲストのバレリ-ナにリ-ドされ、軽やかにおどる様子に見入ってしまった。若さは可能性のかたまりである。後生おそるべし。中学校に入った時から、バレエを習っていると知ってはいたが、高校2年になるとこんなに成長するのだろうか。花が開いたという感じだ。若いときは10年続けるとはこんなふうに自分のものになっていくのだろう。本人にとっては10年と口で言うほど簡単ではなく、それぞれに中途半端な努力ではなかったと思う。  2日後、一日遠足でこのプリマ女子生徒は何事もなかったようにレクレ-ションを楽しんでいた。2日前のあの舞台での緊張感は半端なものではなかったはずだ。鬼ごっこやドッジボ-ルを他の生徒とまったく変わりなくやっている。もちろん、姿勢がよく、動きも俊敏なので、遠目でもわかる。生徒の横顔は見えているつもりでもなかなか見えていない。しかし、期待を裏切る成長ぶりに出会うとこちらもうれしくなる。若さと可能性は近い関係に間違いない。

きばっど  6月の花嫁は  R3.6.4

 6月の花嫁は幸せになれる。天気が良くて物事がうまく進む季節を前提に語れる話で、梅雨時期に当たる日本では当てはまらないようだ。まさに、稼働率アップを考えた業界のキャッチフレ-ズだ。それなのに、なぜそんな価値観が形成されたのかが不思議である。まさに思い込みが文化になった。花嫁は幸せになれるが思い込みである。幸せな二人のその後を書くおとぎ話はない。終わりはだいたいこうだ。「そして、いつまでも、二人は幸せに暮らしました。」物語は幸せの絶頂で終われば、その後は問題にされない。しかし、現実ではこの「幸せ」の後が長い。テレビや映画では、時の流れを脚色しすぎて、素直に幸せ?と考えられないのも不安になる。思い込みの文化は次々と生まれている。

 先入観や作り上げた価値観が行動を規制するとしたら、自由度の高い学習の成立をさまたげている。錬成講座をまじめに受けるのは大事なことだ。万葉集の相聞歌を取り上げる時、あまりにもまじめに聞かれても、調子が狂う。大胆な愛情表現には恥ずかしがっても、笑ってもよい。いったん笑い出すと集中できないのだろうか。喜怒哀楽、ユ-モアのセンスこそ、国語の授業では必要条件だ。自由度が高いと、感情の表出もありだ。すべてがほどほどでよさそうだ。

 自分の頭で考えるとき、自由な発想がでてくるのはゆとりある雰囲気の中だ。授業に興味があり、調べたり、話したりすることが楽しいが大切だ。そもそも創造的な力は他から触発されて起こるものであり、本人だけの考えではなかなか広がらないし、つながらない。いろんな能力の伸長にはおしゃべりは必要だ。興味さえあれば、このおしゃべりが教科の本質につながる可能性もある。おしゃべりの内容次第であり、全部が授業を阻害するものと考えないでほしい。

 興味がある言葉ならそこにこだわり、盛り上がってほしい。見た目にはよけいに見えても語り出すとつながりが生まれる。6月の花嫁を幸せにするには、物語のお姫様の課題を全部解決すると引き受けてほしい。いつまでも幸せに暮らすお姫様たちには何が必要なのか、そして、どう提供するかである。答えはないが、候補となる手立てをいくつか提示し、選択はお姫様本人で良い。シンデレラも、こう提案できる人なら結構頼りにするはずだ。これからの信頼関係はそうやってできていくに違いない。苦情やぐちを聞くのでなく、具体的な解決をいっしょに考えていく関係づくりである。こんな人間関係が学習の中でできるとおもしろい。プロデュ-スできれば、「お互いに幸せになる」である。  社会の変化のスピ-ドが早く、多様に変化するので、物事に負ける(適応できない)ことが多くなる。その試練で強くなれる理由は一つ、自分だけでなく人のためにも役に立とうとすることである。その理由を知れば、もう少し自由度の高い学びを求めるだろう。聞く相手を選ぶことから試みるだろう。育英館にはそんな自由度の高い学習を可能にする要素がふんだんにある。楽しみだ。