きばっど  英才はどう育つのか  R3.7.25

 学校は子供の心身の自立を援ける場であり、その生命の可能性に対する畏敬を欠くと教育は成立しない。生徒には敬語を使う必要はないが、呼び捨てや命令するのは古いだろう。「可能性」に対しての敬意は払うべきである。将来、日本や世界を救う一人になるかもしれないからである。そのためといって何だが、自己決定できる自主性こそは育てるべきである。逃げないで自分の力で決められる人間に育てたい。自己決定に人生をかけられる肚を育てていきたい。シンプルであるが、正しいと信じることを自分で選べる人間に育ってほしい。

 本校は「英才を育てる」学校である。校名の由来としてそのことを語っている。英才は「なりたい自分」の志をもつ。「天才は努力で生まれ、英才は目標で育つ」である。目標や努力をなくしては、才能もちながら発揮することができない。世の中の役に立つことが目標で、世の中に認められてこそ英才である。

 水面下での努力が天才を生む。優雅に水面を進む白鳥には水面下での水かきの努力があることはいろいろな話に取り上げられる。努力とはなかなか目に見えない。トビウオが優雅に空中を滑空するためには、水面下で70キロ以上というスピ-ドで助走(助泳?)しなければならない。トビウオに聞けば、きっと「天才とは努力」というだろう。さて、英才とは?。天才との違いは自らを育てるところだ。目標を掲げると、自分に必要な力が見えてくる。その力を身につけようと努力するのが英才である。目標も自分でなく、他者を助けたり、社会に貢献したりという側面をもつ。考えるに同じ努力でも少し違ってきそうだ。

 受験期は人生における努力の尊さを教える大切な機会でもある。なぜなら、この時期は人生においてもっとも向上心が強い。この時期こそ、努力の尊さを教えなければならない。思い返すと、学校で学んだことは記憶に残らなくても、自分が努力した経験は鮮明に残る。勉強方法、心がまえこそが本当の財産だ。そして、若いうちの苦労を買ったり、鉄を熱いうちに打ったりの話は、結果や成果でなく、人間の成長、その後の生き方に関わる、そう考えると納得できる。 運や偶然に結果を求めると、それだけを期待して努力しない。チャンスは偶然にやってきそうだが、実のところ、そうではない。自分に準備があればこそ、奇跡的なチャンスに恵まれる。好機はすべての人に訪れるが、それをうまく活用する人は少ない。ギリシャの作家ソフォクレス「好機はあらゆる努力の最上の船長なり」と言っている。彼は準備こそが大切だと知っていた。「志を立てることは大いに高くすべし 小にして低ければ、小成に安んじて成就しがたし。天下第一等の人とならんと平生志すべし」英才を意識した貝原益軒の言葉は実に重い。「人間は2つの目と1つの舌をもって生まれてきた。それはしゃべるよりも2倍よく現実を見るためである。」自分の志は何かと問い続け、現実をよりよく見ようとすれば、英才となるべく「高きをめざす」ことになるはずだ。

きばっど  上善は水の如し  R3.7.16

 「上善は水のごとし(最高の善は水のようなものである)」のあとに、その理由を「水は善く万物を利して争わず、衆人の 悪 にくむ所に処 おる(水は 万物 をうまく育むが、上に立とうとはしないで、人々が嫌がる低いところへと流れていく)」からだ、と述べてあります。

 中学校の理科では水の三態を習うようです。よくよく考えると、人間は60パ-セントが水だから、水の三態が影響しないはずはないのです。もちろん、極寒の地では水は凍るし、熱するとお湯になる。人なら死んでしまうので、温める、冷やす程度で考えてみたい。

 36.1の体温の人と36.5の人では、基礎代謝に差が出てくる。体温が高い人ほど、エネルギ-を消費することとなる。朝からラジオ体操をすると体温はあがる。ジョギングもそうだろう。体温がわずかに高いと順調に消費する。心の方もやはり36.5の人が温かいに決まっている。いつも上機嫌でいるには、適度な運動をして体温をあげるのがよい。とにかく、温めるのが一番手っ取り早いようだ。

 最初の話にもどるが、水が濁らず、さらさらと流れるには、体温もだが、血液成分がサラサラでなくてはならない。水と油のたとえもあるが、60パ-セントが水の人間に過剰の油を与えるのはどう考えても相性がよいはずはない。取り過ぎはたぶんよくないと想像がつく。

 水でできているから、水をコントロ-ルすることが心に良いと推測できる。つきあいも「水の如し」だし、いつまでもみずくさくなってはこまるだろう。病気が重篤になると、肺に水がたまり、多臓器不全に陥る。自分の体の水におぼれてしまうともいえる。生きるも死ぬも水ものなのかもしれない。「水のように生きようとする」理想には尊敬の念をはらいたい。どんな時にも水のように清らか生きたいものだ。 水くさい話にならないように、内容は濃いものがよさそうだが、浸透圧の関係でいくと、これもほどほどがよさそうだ。塩分が高いと血管を傷つけるし、腎臓の負担も重い。すべからくサラサラがよいのかもしれない。春の小川がなぜサラサラいくのかがやっとわかってきた。雪解けやわき水のイメ-ジがあり、難しく言えば「清冽」があてはるのだろう。清冽とはいかないまでも綺麗な血にこしたことはない。ドロドロ血の顕微鏡映像は何度見てもいただけない。これではドラキュラにも拒否されそうだ。夏場は十分な水分補給を心がけたい。水の話でこれだけ盛り上がるとは、60パ-セントが水でできた、水の惑星の住人なんだなあと納得してしまう。「水いらず」は困りもので、いつでも給水を心がけて今年の夏も乗り切りたいものだ。

きばっど 褒める・叱るは人を伸ばす R3.7.9

 「褒める」・「叱る」には「人を伸ばすとか、育てる」という目的がある。相手の存在を肯定し、意欲を喚起し、成長を促すものである。これらは、薩摩剣士隼人の剣に似ている。彼の愛刀「無刃剣・十字丸」は、相手を叩きのめすのではなく、魂をぶつけあってわかり合う為にと刃がついていない。

 「褒めるは前進への促しであり、叱るは挽回への励ましである」のとおり、何もなければ失うものはない。何かあると考えるから、叱る。失う前の状態に本人が戻るための働きかけの「叱る」はある。人はあることに対して苦手、下手というが、自分自身が気づいていない。そのために一時的に閉じ込められたり、チャンスを失ったりしている。本人が元の状態にもどれば、当然できることである。伸びる力、挽回する力の存在を信じているから、褒めたり叱ったりするのである。成長力や回復力は人によって遅いや速いがある。だからと言って、見切りをつけてはいけない。「挽回」には遅れているものを取り戻すという意味も含まれている。人を伸ばす、育てるには時間が必要であり、辛抱強さが要求される。一度や二度でうまくいくことはない。後継者を育てるためには、「褒める」も「叱る」もその意味を理解して、しっかりと身に着けておきたい。

 ところが、育てたい、伸ばすという目的をもたずに、ただ叱るのはこまる。そんなキャラに遭遇すると、叱られた記憶が心の傷として残る。叱ることの退対局を意識したい。叱るのは励ましで有り、期待であると分かれば、叱られた方の対応はずいぶん違う。温かさと厳しさのバランスこそが肝心である。「5つ教えて3つ褒め、2つ叱ってよき人にせよ」と教えた二宮尊徳の名言にはうなづいてしまう。まずはしっかりと教えること、情報の入力は大切だ。その入力したものが、正しく動くかどうかも見極めたい。育てるためには相手をよく見て正しい評価をすることが必要と行っている。大目に見るとか、仏の顔も三度までとか、叱ることを留保する技術も必要なようだ。これは、育てるという観点や可能性を伸ばすという観点だ。

 おいしいごはんは最終段階が大切だ。熱がしっかりと釜の中を循環する必要がある。失敗を受け止め、反省しているようなら、今回は許そうと叱責を控える上司であれば、部下は育つに違いない。二宮さんが3つ叱る、2つ褒めるとわざわざ数字をあげて諭したのも分かる。子育てでも生徒指導でもついつい叱ることが多い。それをあえて、しかることを少なく、褒めることを多くと注意したところに人間性が出ている。愛情をもって育てるための割合がよくわかる、まさに6と4である。多くの人が子育てにかかわると、この6と4の割合に近づくのかもしれない。じいじの言葉、パパの言葉、先生の言葉など、成長に関わる多くの人の言葉のシャワ-があわさって健全な成長へとつながるのだろう。 いまさらだが、忘れられない一言や行動があるのが、ありがたい。

きばっど 中高生は「偉人伝」を読もう R3.7.2

 読書の効用として今までもいろいろと書いてきた。読書歴はその人の心の成長でもある。一人の人間の人生で経験することはたかがしれている。作者が経験したこと、全部ではないがそのエキスが書いてあるのが、本である。読むことで疑似体験や追体験ができる。これは手っ取り早い学習にほかならない。小4、5年の頃に読んだコンチキ号漂流記は忘れられない1冊である。もちろん、これと同じではないが、海底二万マイルや地底旅行など、冒険の世界を追体験した。のどの渇きとか、大タコとか、想像できたりできなかったり、それでも心臓はばくばくして、夜も眠れなかった。

 読むことはインスト-ル、自分を変えていくことはバージョンアップである。なんでもなかった人がどうして偉人になるのか、どんな過ごし方をしたのかと気になるものだ。幼少期から大きな志を抱くのはなかなかである。ほとんどの人が普通に生まれて普通に大きくなっていく。変わるきっかけは不思議と前半部分にある。少年期から青年期にかけての自己決定の場面である。外的な要因は世間一般の不幸、貧困が多い。さらには、よい方では友人や先生との出会いである。これらによって本人は自己決定をして、自分で決めた道へと歩み出す。多くは20代前半までにこういう機会があるようだ。

 その次は与えられた場所での努力の継続である。20代から40代が活躍の時代である。偉人の多くが自分で運命を切り開く力を見事に発揮する。しかし、よくよく読んでみると、人に助けられてこそ偉業をなしとげるといってよい。つまり、どんな人と出会うかが大事である。そして、そのアドバイスを受け止められるかである。

 二宮金次郎は農政家として知られた偉人である。彼の幼少期もけっして恵まれていない。人並みの幸せなんて考えられない苦労の連続である。もちろん背中に薪を背負い、その間も本を読んでいたイメ-ジはうそっぽい。しかし、彼が恵まれない境遇で一生懸命に学んだことは本当だろう。身近なところに学ぶチャンスがあり、それを十分活用したたとえではなかろうか。問題意識の継続があったのだろう。読書の効用につながるのは、偉人伝の前半には中高生時代が書かれる。どんな偉人も名もない人であったという過去がある。それが新しい発明や発見で世界を救う人になった。そんな偉人のだれもが「みんな若かった、中高生だった」のはまちがいない。そうなると、だれもがそうなる可能性にあふれていると気づく。読んでみればどうすればよいかのヒントもある。考えてみると、日々のいろいろな刺激をうけ、イントス-ルを繰り返し、新しい自分へとバ-ジョンアップしている。人はそうやっていろんな時代を生き抜いてきた。コロナ時代を生きぬいて、新しい自分へバ-ジョンアップしよう。