きばっど育英館    他山の石を拾えるかどうか  

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城西高校への体験入学参観で、何を見て、何を学んだのだろうか。「我以外皆師」と剣豪武蔵に語らせた吉川英治はすごい。まさに他山の石を拾える人だと思う。小さい頃、河原で「この石はクジラだ」と似たものを探した。最近、さまざまな出来事や身の回りのものと比べ、似ているとか、縮図だとか、自分なりに解釈するのは「河原の石探しと同じ」と思いついた。参観の感想を読むと、いろいろなことが見えてきておもしろい。

石探しはどう発展したのかを思い出してみた。クジラにするために、色を塗った。目も描いた。残念ながら、水につける勇気はなかった。「他山の石を拾う」行為の本質がここにあるのかもしれない。子供の遊びといえばそれまでだが、身の回りや参観先での出来事にも着色すれば、別のものが見えてくるはずだ。自分の感性で、色塗りにぜひチャレンジしてほしい。城西にあって育英館にないもの、そこに、新しい何かがきっと見えてくる。しっかりと見たものを心にとめて、自分を磨こうとすれば、「我以外皆師」にきっとなるだろう。

「趣味はダイエット、特技はリバウンド」と健康管理をごまかす技を自慢している。食べ過ぎ、運動不足もよくないとわかっているが、なかなか実行できない。「実行する」と「考えてみる」には本当に大きな開きがある。これらは他山の石の拾い方に問題がある。石は一つの価値観であり、「ちょいメタが長生き」、「ふっくらするとかわいい」、ましてや、「腹があって男は一人前」と都合のよい石を次々に拾う。他山の石は、批判的に拾わないと意味がない。自分の今を改善するのに活用できるものを拾うがポイントだ。そう考えると、常に問題意識をもつことが重要だ。

この拾い方の違いには心の距離が遠いことも関係している。遠い外国で起こった事件と隣近所で起こったのでは、感じ方が違う。心の距離に関係なく、人の死は悲しいし、理不尽な事件には憤慨するのが当たり前だ。分かっていても、遠くの話に興味が湧くはずもなく、なかなかそうはいかない。せめて、石を拾う時には、自分や身内のことであるという気持ちで拾いたいものだ。自然災害やいろいろな事故への備えも、その気持ちがあれば、最悪を想定する部分できっと役立つに違いない。まさに他山の石の教えのとおりである。

拾ってきた石を自分なりにどう生かすが次のポイントだ。そのままでは、ただの石、まさか、置物(思い出の品)や文鎮かわりに使う人はいないだろうが…。そのままの形から、自分の生き方のモデルにするものよし。「自分に不足していた象さんタイプで生活しよう」と考える方法だ。加工すると考えると、「磨く」で、地学でのプレパラ-トづくりの経験が浮かんだ。ギタ-ピックぐらいの大きさ、薄さになるまで、石をひたすら磨く。完成品を顕微鏡で覗くと、鉱物が浮き彫りになり、それは美しい。「適度に磨く」も輝かす方法の一つではないだろうか。

他山の石の話でここまできたが、自分のことは棚に上げて見えないのが、並の人間である。自分はどうなのかを知ろうと、比較する石を手に入れる努力をしてほしい。他山の石はけっこうあちこちに転がっている。岩石採集をするつもりで、他山の石を集めてみてはどうだろう。

2歳になる孫は砂利を拾いながら、「大きい、小さい」とつぶやきながら振り分ける。玄関のたたきに並べて、つぶやく。自分以外を認識する感覚は物理的なものから派生し、やがて、抽象的なものへと成長する。彼がどんな石を拾い、それをどうするのか。楽しみに眺めたい。「幸せの隣にいても気づかない日もあるんだね」と365歩のマ-チでチ-タが歌ったのは半世紀も前、未だに幸せの石に気付けない私は、孫に追い越されるのだろうか。石の話はなかなかまとまらない。

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