街の灯り                H26.6.22

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きばっど育英館      街の灯り                H26.6.22

古い歌から話を始めます。堺正章の歌「街の灯り」はとても詩情豊かで聞きながらジ-ンときます。「街の灯りちらちら あれは何をささやく 愛が一つめばえそうな胸がはずむ時よ 」の歌詞です。また、よく知られた「ブル-ライト横浜」は「街の灯りがとてもきれいね横浜…」です。見た場所は、山下公園でなく、港の見える丘の方でしょうね。高台から、街の灯を眺めると本当に心が和みます。なぜそういう気持ちになるのかは、灯の一つ一つに人々の暮らしがあると、共感できるからなのでしょう。

思い出す歌が少し現在に近づきますが、宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」の主題歌「君をのせて」にずばり書かれています。「たくさんの灯が懐かしいのはどれか一つに君がいるから」のくだりです。たった一つの灯の中にあこがれの人の存在を感じられるという作詞者の感性がすごいですね。そして、地球はまわっていくのです。

一つの現象には驚くほどの奥行きがあり、それを見よう、考えようとすることが大切なのです。警察ドラマで、所長室にかけてある額は、昔はよく「聲なきに聞き 形無きにみる」と書かれていました。近頃は、「正 速 美」などが多く見られます。今こそ、現象の奥にあるものを「聞き、みる」が必要な時代だと感じます。

日本は「聞き、みる」の双方向通信に長けた国であったのです。それは、八百万といわれる神々の存在です。自然界のいろいろな動きを神様の心の動きと考えた先人は、それを読み解こうとしました。その行為は習慣化され、隣人や家族、社会という人間界での相手への思いやりとなり、日本列島の上で何世代も醸成されたと考えられます。

外国から来ようが、宇宙から来ようが、相手への思いやりを変えることはないのです。

さて、物事の奥にあるものを見極めようと努力してみましょう。映画の話ですが、チャップリンの名作にも「街の灯」があります。豪華なセットも音楽もないけれど、彼の演技力でこの映画はいつまでも輝きをなくさないのです。「ない」は「ある」をこえるのかもしれません。ぜひ、この映画で奥にあるものを考えてみましょう。

とある街に暮らす浮浪者(チャップリン)はある日、街角で出会った盲目の花売り娘に一目ぼれ。彼女は男がタクシーを使う金持ちだと信じる。その夜、妻と離婚して自殺を試みていた富豪を助けて友達となる。彼は飲んでいる時だけは覚えているが、醒めると全て忘れてしまうという男だった。その為屋敷を追い出されるが、もらった金で娘から花を買って紳士のふりをする。病気の彼女のために働き、家までいって献身的な世話をする。だが、彼女が家賃の滞納で立ち退きを迫られていることを知り、何とか金を工面したい男は、八百長ボクシングに手を出すが、うまくはいかない。酔っぱらった富豪と偶然再会する。屋敷で事情を話して大金を貰うのだが、運悪く屋敷の中に強盗が潜んでおり富豪は頭を殴られ気絶する。警察を呼んで事情を話すが、酔いの醒めた富豪は覚えていない。強盗に疑われ慌てて逃げ出し花売り娘の家に駆け込むと、家賃と目の手術代として金を渡すのだった。しかし、その帰り道、男は警察に捕まってしまう。数年後、刑務所を出た男は目が治った花売り娘と偶然再会する。男の正体を知らない 娘は、憐れみから浮浪者に一輪のバラを差し出す。その時彼女は男の正体に気づくのだった。 さて、何が「ない」のにもかかわらず、何が「ある」のでしょうか?

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