校長室だより

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きばっど「鬼滅の刃」R3.1.18

コロナ時代になぜか「鬼滅の刃」というアニメが流行した。コンビニもどこもかしこもこのグッズがあふれ、いつのまにか完売した。ここまで流行する、その秘密を考えてみた。まずは、敵となる鬼がめちゃくちゃ強い。ふつうはヒ-ロ-が必ず勝つ構図で物語が進むので、結末は予想がつく。安心してみることができる。鬼を退治してめでたしめでたしである。ところが、このアニメの鬼はめっぽう強く、主人公たちは苦戦して、たまには負けて命も危ない。どうにか勝ったにしても相打ちに近いような勝ち方にしかならない。戦う度に満身創痍なのである。「強くならないといけない」という課題をいやでも意識させられる話の展開なのである。今までのアニメと確かに違う。

 主な登場人物の4名には共通点がある。竈門炭治郎(カマドタンジロウ) 、妹の竈門禰豆子(カマドネズコ) 、鬼滅隊の同期 -我妻善逸(アガツマゼンエツ)  -嘴平伊之助(ハシビライノスケ) とやっと読めそうな難しい漢字プラス濁音である。このネーミングセンスは抜群で、

子供から大人まで覚えさせてしまうところがすごい。読めそうで読めない漢字こそ、ロマンにあふれるのか、キラキラネ-ムばりで注意を引くのに十分である。

また、近頃のアニメには珍しい紙芝居的な要素をもつことに注目したい。見せるためにぎりぎりまで動きを削ぎ落とす。つまり、捨てる論理で描かれている技法がすごい。今までのアニメが背景や小道具を含めて詳細に描くという流れから逸脱している。別れ場面で、遠く去っていく人物の後ろ姿は静止画並みの少ない動きで描かれている。わずかに足が動き、そのまま背景の中に消えていく。その静止画と対比されるのが、戦闘場面である。鬼との闘いシ-ンはすごい。迫力満点である。カット数も半端ないが、視点変化が激しく、臨場感は半端ない。敵と味方と視点が入り乱れる。また、戦闘シ-ンの中にうまく、過去の思い出や幻想までが書き足されていく。情報としてはやや多すぎる感じがするが、ここも受ける材料になっている。鬼になる運命も解そこから放される安堵感までもが実にわかりやすく、盛り込まれている。鬼の運命に共感できる炭治郎には鬼を殺すというより、その運命から開放していくような感じさえある。妹が鬼になっていることで、彼には心から鬼をにくめないのではないだろうか。鬼を滅ぼしながら、同時に救おうとする構図がある。

次に漫画らしいかわいい描き方が随所に出てくる。あれほど勇敢に戦うヒ-ロ-たちの目が点になったりするのは笑えるし、かわいい。「柱」と呼ばれ近づきがたい凜々しいキャラが笑いを誘うような描き方に突然変わる。この変わり身のおもしろさも人気の秘密だと思う。この顔だけ見たら、残酷な戦闘シ-ンの中の主人公とは絶対に思えない。

日本のオニという概念は、「姿、形のない恐ろしいもの」である。それに漢字の「鬼」があてられた。心にすむオニとか、オニの面とか、人がそうなるのではないかという恐ろしさが言葉的に存在するのを感じる。もともと人だから、そんなオニを「殺す」でなく、「滅す」という願いのような気持ちがわかる。コロナのおかげでたくさんのオニが日本中にあふれている。炭治郎たちの出現が待たれる。コロナさえなければオニになることもなかったと考えると悲しい限りだ。

きばっど コロナくんさよなら R3.1.16

今年はコロナくんとつきあわないといけない一年だった。逃げようにも逃げ場がなく、正体がよくわからない彼につけねらわれた。3月の初対面では、その恐ろしさからすぐに休校になったり、卒業式には歌もなく、時間短縮と大騒ぎになった。そして、とうとう「来賓にもご遠慮いただき…」と来賓席もなくなった。年度が替わり、「三密を避ける」ように言われ、保護者のみの参列という入学式からスタートした。歓迎会はもちろん、密となる会は例外なくすべてなくなった。新入生がマスクをしているので、名前も覚えられない。どんな声かもわからない。5月の保護者のPTA総会までも紙面開催となった。生徒も保護者も覚えられない新学期だった。

 コロナくんはどこからともなくやってくるという話が広がった。遠足や修学旅行にバスで行くと危ないと言われ、中止や延期になった。日本中が毎日、王冠に似たコロナくんの映像を何度も見せられた。6月から7月にかけての対外試合や遠征、練習試合もなくなった。勉強も対面授業がだめで、オンラインやズ-ム授業というものが始まった。中国はじまり?のコロナくんは、1学期を中心に日本中に恐怖を植え付けてどこかへ去っていった。

 夏休み前に鹿児島でもクラスタ-が発生した。天文館にいけない日々がスタ-トした。今度のコロナくんは鹿児島のいろいろな所に姿を現した。どこもかしこもコロナくんだらけでないかとだれもが心配になった。とうとう6月末予定の研修旅行も2学期に移動することになった。生徒も教師も県外に行く度に健康観察や隔離生活が必要となり、心配だけが募った。帰省できない寂しさに初めての寮生活の生徒たちは押しつぶれそうになった。1学期から夏休み、2学期初め、コロナくんはあちこちで大暴れ、みんなの心をずたずたにした。報道される数字に心を痛める、先の見えないがまんの日々が続いた。

研修旅行の10月末実施は至難の業だった。何しろ毎日、全国で感染者数が増え、流行、注意地域に目的地の北海道が入るのも時間の問題だった。計画では東京ディズニ-も予定していたが、これをあきらめ、北海道だけで実施することにした。旅行業者と連携して、当日の感染状況を把握し、訪問先や研修場所を変更することにした。コロナくんの脇の下をすりぬけて、北海道でのファ-ムスティを実現できた。旅費が安くなるなどのGotoトラベルの恩恵を受けたのにはびっくりした。中学体育コ-スも大阪近辺のサッカ-、野球観戦をあきらめ、熊本、長崎に変更しての実施になった。キャンセルがあいつぐ中で、思いがけず、立派なホテルに宿泊できたと聞いた。県内実施とした学校も多かった。

 やがて令和3年がやってくる。新しい生活様式は定着し、感染しやすい5つの場所への注意が喚起されている。ここまでで、人が「距離」にいかに左右されるかということがわかった。マスクで顔が見えないと気を使わなくて済むという人もいる。しかし、知り合いがまったくいない世界に暮らすようで、寂しい。足型の絵に誘導され、いやでもディスタンスを守らされる。「ふれあい」の歌詞ではないが、「コロナくんに出会う度に大切なあの人を思い出す。」この1年のコロナとのつきあいで、一人では生きていけないこともよく分かった。なにげない心のふれあいがほしい今、そろそろ、コロナくんとさよならしたい。

きばっど 生徒への語り方3 R3.1.15

生徒への語りのかまえづくりが生徒指導の話になって終わってしまったので、少し視点を変えて語り直したい。生徒指導ではこんな語りがよいと話は進んだのだが、授業場面ではこう語りたいと、キ-ワ-ドでの語りおすすめしたい。

キ-ワ-ドでの語りというイメ-ジをつかむ話から切り出したい。移動する乗り物の中で、ふと見上げると、液晶パネルに情報が流されていることがある。

12文字から60文字の間で流される情報は、キ-ワ-ドの連続だといってもよい。かねてからキ-ワ-ドに注意して聞いたり、書いたりが要求される。語る方も、聞く方もこのキ-ワ-ドを外して理解することにはならない。つまり、常識として使う言葉で、理解がぶれない言葉が使用されている。

もし、この情報が理解できないとすれば、現在の日本の常識から取り残されていると考えても良い。これらの言葉は、学校や家庭で使われなくてはならない。新しい知識の獲得が自分でなされるようにしておくことが必要だ。また、限られた時間でどれだけのものを聞くことができるのか、理解できるのかの力も向上させなければならない。

鹿児島中央から乗車し、ハウステンボスに行くとすれば、途中の乗り換え駅で下車する必要がある。駅名と所要時間の情報をどう活用するのか、朝食を食べてないとすれば、弁当を買えるかどうかを判断することにもなる。到着時間だけでなく、発着時間も調べたい。スマホのどんな機能を使うとよいかとなる。天気が怪しげなら、お天気アプリの出番である。キ-ワ-ドで聞き、新たな課題解決にむけて知識を統合する。まさに生きる力である。予算が1000円しかないと仮定すれば、立ち食いうどんですますのか、おにぎりとお茶の昼食にするのかは到着駅の様子を次第だ。詳しく調べたい。快適な旅を楽しむためには、一つの情報に重ね合わせていく部分と広げていく部分が必要なようだ。

授業の中に取り出すキ-ワ-ドにもこんな作用があるものがよい。その言葉をきっかけに無数の関係が形成され、新たな課題までも導き出されていく。数学の展開や分解ではないが、取り上げたキ-ワ-ドがこんな形に展開されていくことを見せると生徒も興味・関心が高まる。自分たちでもやってみたくなる。キ-ワ-ドで語ることはそんな意味でも重要だ。

先生は世の中を知らないので、「甘い」と言われる。夢や希望を語る人が甘くなくてどうする。世の中を知らないから言えるという話も否定はしない。学校は未来への適応と創造を任されている。だから、創造を考えて、学校は甘い。創造はまちがいから始まる。失敗から学ぶことは、偶然できた成功よりも多い。夢や希望のない未来にだれがあこがれようか。未来を見たいと思うなら、失敗に強くなることだ。失敗なんか乗り越えていけ。失敗から学べ。

きばっど 今年のスロ-ガンは R3.1.12

「やり抜く力」が今年のスロ-ガンである。年頭のあいさつの中で理事長が「自分の目標にむかって、ひたむきに最後まで努力する。挫折困難を乗り越えて、あきらめずに、粘り強く、やり抜く」とこの力のイメ-ジがわくように語られた。この力は「継続して」がポイントである。成功する人に共通する資質、あるいは、取組という観点で、研究者の言葉も引用された。「成功する人には長期間、継続して最後までやり抜く力がある」 成功の法則として、「やり抜く力」は絶対に外せないようだ。さらに、「けっしてあきらめずに努力する」ことや「情熱と粘り強さ」も要素として語られた。最後に「やり抜く力」を発揮しやすくするために、目標達成シ-トの活用を取り上げられ、毎日、確認して実行するようにと付け加えられた。教師自らがこの力をつけて、生徒たちにもこの力がつくようにと結ばれた。やり抜く力がついたかとどうかは結果として成功したかということになりそうだ。評価として、結果を重視するということだ。

 やり抜く力を生徒につけるにはどうするかで話を進めたい。まず、意欲が必要だ。動機づけが大切だろう。対象としてやることが自分の将来について大切だ、価値あるものだと認識できれば、自ずと取り組みが違う。継続して努力できるエネルギ-がそこに存在する。やり抜く力は成功体験の上に強化されるだろう。文化祭や体育祭の学校行事の中で、自分が任された仕事をやりとげる時、「困難や挫折を乗り越えて」となるに違いない。やりとげるを実感できる特別活動の取組こそ大切にしたい。教科についていえば、客観的な評価となる資格の取得である。英検や漢検、数検などはやり遂げた指標になるだろう。 具体的には「やる気 やること やり抜く やり遂げる」の流れを考えて指導したい。やることを発見させるのはキャリアを育てるのにも重要だ。学習に主体的に取り組ませたいのであれば、本人が何をやりたいのかを相談しながら決めていくのが良い。その意味では、目標達成シ-トは担任や部活動顧問と語りながら作らせたい。やることは達成シ-トを見ればすぐわかるとしておきたい。さて、やる気には個人差がありそうだが、形を作ると高まることはよく知られている。授業に入る前の黙想などはまさに心の形をつくる行為である。しかし、なぜ継続できないだろう。継続すれば、正座した時の足のしびれのようなものがあり、組み替えたり、立ち上がったりが必要となる。「継続する」は、けっして同じことの繰り返しではない。改良しながら継続するのだ。そうでなければ、続かない。教師は、改良の観点を教えたり、組み替えのタイミングを指導したい。そうやってやり抜く力を育てていくと、人は次のやることを自分で見つけてチャレンジするようになる。やり抜く力は他に転嫁して発揮されてこそ本当の意味で身についたことになるだろう。

きばっど 生徒への語りは R3.1.8

前に取り上げた「生徒への語り」の続きである。語るときは「かまえ」をつくらせることが大切である。小学校低学年で、「話す人の方を向いて」とか「話す人の目を見て」と指導され、せっかく身についたのに壊していないか。教師主導、知識注入型の授業が増えると、教師が生徒の表情をしっかり見ない。見ているのかもしれないが、 授業は先へ先へと進んでいく。高校になれば、さらに加速していく。そのうち、「点検しよう」がマヒしてしまう。生徒へ関わりが減ると、教師はテレビの人と同じに生徒には見えてしまう。こうなると話を聞くはずがない。嫌いなタレントと同じで、心のスイッチはオフになってしまう。

 小学校の低学年での躾は簡単になくならない。だから、「これから話すからね」のかまえをつくって話すと、生徒もその気持ちになるので語りやすい。家庭教育学級で母親に語るときにもこの手順が有効だ。生涯免疫のようなもので少しのことで、十分にかまえを作らせることができる。話す人の方に顔をむかせて、目の中に自分が入ること。そのためには、正しい姿勢をとらせる。スマホをさわらせない。鉛筆は握らせる。そして、「話を聞く姿勢ができていますね」とか褒めてあげることだ。ここまでさせた。この場面なら必ず大事なことを言うぞと期待させて、かまえづくりの完成だ。次に話はできるだけシンプルがよい。語ることは一つ、「◇は○です。」を語ると決めておくと話がぶれない。時間があれば、2から3のキ-センテンスを準備する。

生徒指導の話には、「語りすぎはよくない」と少し注意が必要だ。教師は記憶力がよいので、つい過去の問題点もいっしょに解決をしようと意気込む。記憶に新しいものを一つだけしっかりと理解させる方が効果的だ。あれこれとしかるとどれでしかられているのかわからなくなる。次に具体性がないといけない。そのためには問題行動に至る状況を口頭でしっかりと説明できないといけない。動機や原因は当然だが、聞き取った問題点について、教師の言葉でしっかりと語り、どこが問題なのかを理解させることだ。これでかまえができるので、ここからいよいよ指導に入れるわけだ。かまえがないといくら語っても届かない。 本人に「どうすればよかったのか」の過去を語らせ、「今後、どうするのか」の未来を考えさせることだ。過去はもとにもどらないが、これからの生き方を変えていくことはできる。学校は社会に出る前の人生の道場である。ころんだり、泣いたり、笑ったりしながら、よりよい人間関係や理想的な生き方を志向する場所で、許される場面も必要な道場である。それは社会に出て取り返しのつかないことをさせない予防でもある。人はまちがう、そして、人は正すこともできる。そのチャンスをもてることを学ぶ必要がある。仏ではないが「三度まで」の気持ちは、教育者として持ち続けたい。