校長室だより

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きばっど 主人公は君だ R3.4.2

 「自己を見つめる力」について考えてみたい。自己をどう見るかでその人の生き方も変わる。自分とは何かは哲学的な問いのようであるが、その問いを発することに大きな意味がある。自分がよくわからないのでは、なかなか夢の実現に踏み出すこともできない。つまり、現在の位置がわかってこそ夢までの距離もわかる。人は「比べること」を通して自分と目標との距離を理解することができる。自分はどこにいるのかは、他人や過去の自分と比べたりして、把握しようとする。これらをすべて「自己を見つめる」行為としてとらえたい。過去の自分から考えてみると、何か一つでも変われば、どれだけ成長したかを感じることができるはずだ。

 しかし、日常の生活の中ではなかなか自分が見えない。つまり、見失っていることも多い。ひどい時は、目的をすっかり忘れてしまう。「喝」という言葉は自分を見つめるスイッチを入れる言葉である。同じ効果のある言葉として、「主人公」の声掛けをしたい。自分が主人公だと考えて、「私は~」「僕は~」と第1人称を意識できるかという話だ。人生は、簡単に言うと、僕や私の物語である。すべてにおいて主体は自分である。他人のドラマに友情出演しているのではない。自分が関係しないで物事は進まない。だから、「主人公は君」である。

 小さいころ、夕ご飯を食べておなかいっぱいになり…、気が付くとふとんの中にぬくぬくと寝ていた。机の上が散れていてもいつのまにか整理されていた。今考えると、母が運び、母が片づけたのだろう。今はふとんに寝かされることも机の上がかたづくこともない。当たり前といえば、当たり前である。何一つ、自動的に、片付くことはない。僕が関わらないと身の回りはいっこうに変わらないし、話はまったく進まない。主人公たるものはぼ-っと生きていてはいけない。水谷豊のドラマの主題歌、「人生紙芝居」では、「そして、だれもが主人公」と歌う場面があった。当たり前だと思っていたが、そう言わないとわからない場面がある。人は毎日の生活に流されて自分の立場を忘れてしまう。 昔話を一人称で書くと実におもしろい。国語の時間では視点を変えて物語を書き直すことがある。視点が変わると物語が変わる。「主人公」の掛け声は、一人称の視点を忘れてはならないということだ。どんな小さなことも自分でやらない限り終わらない。「自分のことにしなさい」という話だ。人には責任があるし、仕事から逃げてはいけない。他人事にしてよい仕事はできない。今の自分に納得できているかを問いかけるべきだ。その意味では自分を見失うことのないように、「主人公」と問いかけたい。自分を意識すると、取組を深めたり、やる気を出したりが可能になる。名前を呼ばれると、人は生き返ることがあるらしい。危ない場面では「呼びかけてください」とお医者さんから言われる。呼びかけにはまちがなく効果がある。「主人公は君だ」の呼びかけを続けたい。

きばっど 縦割り無言作業 R3.4.6

 作業は無言でするがよい。作業はみんなでするがよい。みんなでするなら先輩後輩でするがよい。育英館の伝統である縦割りの作業は、お互いが切磋琢磨する「いもこじ」とよばれる形そのものだ。作業は心を磨く行為でもある。

 「清掃の十徳」の話や掃除で悟りを開く話など、作業が人間形成に与える影響は計り知れない。シュリハンドクというお釈迦様の弟子は、他の者に比べると特段優れたものはなかった。それを知っていたお釈迦様は彼にひたすら掃除をすることを行とするように語った。作業をよくよく考えてみると、単調であるが奥が深い。なにしろ、きれいにするにはその場所がどうあることが一番よいのかを考えるし、どんな道具でどれくらいやれるのかも考える。それから彼はいかにきれいに掃除をするかをひたすら追求した。そして、悟りを開いた

 作業には心を清める効果がある。手が汚れると心はきれいになる。きれいにしたいと思う気持ちが手を動かし、チリを集め、汚い所をふき取る。そうすると、手も雑巾も汚れる。もちろん、雑巾はきれいに洗えば問題はない。作業の時間が進めば、進むほど、心はきれいにしたいと思う。熱心に取り組むので手もずいぶんと汚れるに違いない。ここをこうしたい、あそこもこうしたいと無心にそれだけを追求すれば、雑念は入らず、収集して悟りも開けそうだ。

 この作業を伝統にしている学校は多い。ただし、作業の仕方を教える学校は少ない。家の掃除は掃除機が主流で、学校はほうきである。家にはルンバもいる。もちろん、玄関掃除に、校長室、多目的室に音楽室とシュリハンドクではないが、場所によって用具もいろいろだ。だから、シユリハンドク並みにがんばれば、まちがいなく、お掃除のプロにはなれるだろう。生徒たちで話し合って作業の仕方を作り、今日の作業の手順を確認しあう。その流れをくりかえし、月一程度で評価して改善すれば、作業のレベルはめきめき上がるに違いない。 外国では清掃をなりわいにする人がいることから、学校の掃除はない国もある。日本は違う。日本文化は自己完結型である。自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければならない。サッカ-のサポ-タ-が応援の場所をきれいに片づけて去る姿が取り上げられた。自分たちが応援した場所は自分たちで片づける。これが日本人の当たり前である。しかし、日本人は他人のところまでは片づけない。だれも見ていなければ、ここで終わりだ。ところが、他人の目を気にする文化なので、報道されるとまわりまでも片付ける。そう考えると、同じ片づける行為でも場所によってちがう気持ちでかたづけている。日本人の清掃にむける思いを考えると、半端ないことに気付く。永平寺の階段はよい例だ。僧たちの何百年にもわたる拭き掃除は、堅い杉板の階段さえも見た目にわかるように中央がへこんでいる。掃除への思いがものの形までも変えてしまっている。縦割り無言作業は、立派な修行である。

きばっど プログラミング今昔 R3.3.29

小学校ではプログラミング学習が行われていると話に聞いているが、なんぞやと本を読み始めた。石戸奈々子先生が説明するというマンガである。ざっと言うと、「仕事をどう進めていくかを考える」訓練を小学校から始めるという話だ。昔、年寄りから「だんどり」を言われた。それと同じだと勝手に理解した。

具体的には、プログラムで三角形や正方形をどう描くかという話だ。10㎝の正方形なら、まず、直線を10㎝引いて、引き終えたところで左へ90度曲がり、さらに10㎝進んで、今度も左へ90度曲がり…と命令すればできる。曲がりは左を右に変えてもできそうだ。この応用で多角形も書けるはずだ。

昔、コンピュ-タがゲ-ム機に毛がはえたようなころ、「タ-トル」という言語?があった。これからのコンピ-タ教育の共通語と言われ、教育現場で大きな話題になった。まず、画面の上に点滅する亀(のような)さんが出てくる。これに命令を与えると動く。そのころのBASICとかいう言語では、画面上でものを動かすのは大変な作業だった。ゲ-ムはみんなマシン語で書かれていた。

さて、亀さんには、確かgo(2、3)とか、turn rightと書いて命令していた。何しろこのタ-トルを動かす前に、プログラムをカセットで転送して起動していた。意欲維持が至難の業だった。それでも☆を書けたと小躍りした。目も腰も大丈夫で、☆を1つ書くのに一晩寝なくても平気な35年昔の話だ。これが、色鮮やかなテントウムシやねこになり、日本語の命令カ-ドを画面上で並べるプログラミング。その動きはなめらかだ。スマホでも学べるし、お手軽、お気楽に学ぶことができる意欲もなくならない。30年の月日を感じる。

今、コンピーュタがあらゆる機器に組み込まれ、このようなプログラムで動いている。しかし、基本はこのお絵かきにある。このような考え方が身につけば、仕事のだんどりをきちんと考えられる力にもつながる。この「だんどり」を、科学、技術、工学、人文科学、芸術、デザイン、数学というSTEAMの視点で考えられるようにしたいのか。中学・高校では問題解決型学習をプログラミングの発展ととらえてよいのか。そして、文理の壁をこえた思考力を練る探究学習へとつながるでよいのだろう。しばらくは研究してみたい。

論理的思考力を身につけた若者を育てたいがみんなの願いだ。若者には今までのまちがいを訂正し、これからの判断を間違わないでほしい。小論文は感情論や思い込みで書いてはいけない。事故や事件を防ぐには、すぐ厳罰を…と書くのはダメ解答で、それを引き起こす仕組の改善をとりあげて書くのが正解だ。つまり、改善できるものを問題と設定するべきだ。世の中の失策はこの論理的思考のなさに起因する。つまり、だんどり力のなさだ。35年前、みんなおもしろいゲ-ムを作り、一攫千金をねらった。今思うと、思考力のある人間を作る方が先だった。新しいプログラミング教育に今度こそその夢を託したい。

きばっど トランスレイト R3.3.26

「天の時 地の利 人の和」という言葉を今風にトランスレイト(翻訳)してみた。まず、「天の時」は「タイミング」という感じでどうだろうか。昔、ウンチャンナンチャンのテレビ番組で出演メンバ-で構成されたグル-プの歌唱対決があり、「ブラックビスケット」という名前をつけたグル-プが歌った。とにかく「タイミングこそが物事を決めるのに大事だ」とよくわかる歌詞だった。

 次に「地の利」の話だ。孫氏の兵法に「地」についていろいろと出てくる。「どんな所に陣を構えるとよいか」や「こんな土地に軍隊を進めたら気をつけろ」とあり、「死地」だの「窮地」だの物騒な名前で解説されている。中国では土地に関することを扱う話は多い。幸福を招く風水という学問まであるから、「地の利」についてのこだわりは半端ない。どうトランスレイトするか、難しいが、「バランス」という言葉を考えてみたい。職員の男女の比率とか、交渉で相手の要求をどこまで飲むかのバランス感覚はリーダ-には不可欠の要素である。「調整する」と縁語的に意味を広げると、その利点、欠点を知った上で、「活かす」という発想とも似通う。ちょうどよい所を考えることがよく、勝ちすぎても負けすぎてもいけない。「勝負は負けなければよい」でバランスはとれていくようだ。

最期に「人の和」であるが、これは「ハーモニ-」である。十七憲法の「和をもって尊し」にある発想は協力や共働である。前の2つを欠いても「人の和」は絶対に欠いてはならないと書かれている。ワンチ-ムとなったラグビ-や伝説の東洋の魔女とか、古今東西、この人の和が起こす奇跡には驚かされる。聖徳太子の憲法は理念的な側面が強いとかと言われるが、ここまでくると人生哲学だし、よくぞ憲法の一文にされたと感動する。

トランスレイトすると具体がみえる。他の言語を学ぶポイントはここにあるのだろう。言語の違いは考え方や見方の違いである。翻訳してみると、同じ部分もわかるが、違いも鮮明になる。価値観はもちろん、思考のパタ-ンが違うことも見えてくる。見ず知らずの人とつながるには、まず、考え方の違いが判ることである。違いがわかると、何を説明するべきかがわかるので、相手とつながる手立てが生まれる。トランスレイトはそんな訓練をしていることになる。

「チコちゃんに叱られる」では、多様な言語が存在する一つの説としてこの「考え方の違い」が紹介された。それは「価値あるものがそれぞれの土地で違うから」というものだった。実におもしろい説である。農耕民族であると、稲作に関する自然現象をどう呼ぶかの語彙は当然増える。また、海に囲まれて漁を捕れば、同じ魚なのに成長の過程で呼び分ける「出世魚」なんて言葉が出てくる。ブリ、サワラと呼び分けて、おいしくいただくことになる。これらを価値ある食べ物としていたからである。「言葉が文化である」という話はこういう辿り方をしても、なるほどとうなずける。

きばっど つながりとル-ル R3.3.17

「縦の糸はあなた、横の糸はわたし 織りなす糸は…」と歌われている「糸」さて、あなたと私は価値観や生活経験がかなり違うはずだが、簡単に織りなすことができるのだろうか?そして、織りなすためには何が必要なのだろうか。

 学級経営は「ル-ル」と「つながり」で言われることが多い。これは学校経営でも同じで、校長はル-ルとつながりで、学校を作り上げあげなければならない。命令系統は縦でなくては混乱するし、ル-ルが人それぞれの都合の良い解釈でも困る。ルールはだれが考えても客観性があり、納得できるものでありたい。しかし、横糸に当たる人間同士のつながりはル-ル以上に大切にしないといけない。一日の大半を過ごす学校という生活空間で、生徒であれ、教師であれ、だれの世話にもならず自分一人だけ生きていくことはありえない。

 「糸」は、友人の結婚式のために作られたと聞くと、納得できる。この主題は価値観が違う二人が協力すると、作り上げられる物に包容力が宿るという意味ととらえられる。互いのル-ルを尊重し、守り、相手を思いやるというつながりをもてば、すばらしい家庭になると考えられる。だから、そこにいるだけではダメで、「それなりの努力しない」といけないのである。たとえ、どんなにロマンチックにスタ-トしても、お互いの価値観を理解しようと努力しなければ継続は難しい。協力というより、もう一歩進んで作り上げるイメ-ジだ。お手本はないが、二人の努力があればきっとすばらしい家庭ができるだろう。だからこそ「織りなす」を方法論としている。中島さんの結婚観と言ってもよい。

 学級や学校の話で「糸」をとりあげると、つながりをどう作り出すかだ。まずは課題とのつながりがないと意欲はわき出さない。自分のものと考えて、課題と対峙する。教師も共通基盤や課題解決を工夫する。そして、自分なりの考えをもてると、課題とのつながりができてくる。次に友人とのつながりだ。学びの楽しさは、友人との意見交流にある。人はいっしょに学ぶのがうれしい。社会生活が協働で成り立っているように…。最後に自分とのつながりである。ここでは学んだ意味、や価値を自覚するべきだ。例えると、織りなすものが人を温めたり、慰めたりできるに違いないというイメ-ジの共感である。    糸には「ル-ル」のイメ-ジもある。しつけ糸は、布を縫う際に仮にとめる役目がある。本縫いで着物が完成すれば、跡形もなく、抜き去られる。それは、人間をきちんと育てるイメ-ジの「躾」と同じで、幼くわからない時分にだけ必要なものだ。ル-ルがないと学校は維持できなくなる。その意味でも、よいものを織りなすためにはお互いル-ルを守った上で、新たなつながりを作り出す作業となるだろう。今までの織物よりも素晴らしいものを作るにはどうするのかという問いの継続だ。答えは分かっている。当たり前だが、この2つは絶対に手を抜かないことだ。