校長室だより

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きばっど 南溟館の展覧会 R3.1.28

美術館の企画展には突然行ってみたくなる。今回も新聞を見てそぞろ神がついたように枕崎に行ってしまった。スズキコ-ジさんの絵を見たくなった。枕崎駅の後方にある片平公園の高台に作られた美術館はユニークな形をした建物だった。眺めの良さから南溟(みなみのうみ)の名が与えられたのだろうと想像がつく。その中でスズキコージさんの大魔法画展があった。原色と不思議な構図は「リメンバ-ミ-」の映画の世界を思い出させた。死者の日を描いた映画と同じで、構図に出てくる人も魔物(たぶん)も造形や色彩は実に独特である。

作者の世界を理解しようとするのはなかなか難しい。絵本となった原画を見ながら驚きの連続である。絵本と言いながら、訴える力が半端ない。ぐいぐい心に迫る。抽象画ではない。心象画だと思う。感じるままを描く、心の中を描くという世界にふれたような気がする。心のありのままが描かれるので、感じさせる力があるのだろうか。広島の原爆ド-ムの由来を取り上げた「ドームがたり」はとても興味深かった。産業物産館として建てられ、活用されていた建物の擬人的視点から書かれている。彼は原爆によって自分の呼び名が無理やり変わった無念さを強く訴えている。彼なりに戦争が起こったことを考えている。平和な時代が続けば、そんな名前で呼ばれることはなかったという悔しさにあふれている。原爆ド-ムの語りを絵と文で紹介して、平和を願う気持ちに共感させている。証人が語るために説得力は半端ない。

帰りはマグロ公社によってみた。マグロのモニュメントが入口に飾られ、公社の存在は一目でわかる。象徴性の高い南溟館の空飛ぶ魚のモニュメントとは大違いだ。また、コ-ジの絵にはシロナガスの亡霊が漂うものもあった。同じ魚でもこんなに描き方が違う。考えてみると、同じ文章を読んでも感じ方が違う。それなのに、図や写真を見せて共通基盤を作ったつもりになるのはいかがなものか。教科書で教えるべきは共通した感じ方なのかもしれない。しかし、感じ方にもお国柄が出る。「スイミ-」の仲間は同じ大きさの小魚であるが、「大きなかぶ」はバラバラの力である。大きなかぶはロシアの童話であるように、マト-リシュカのように大から小の力を羅列している。しかし、どちらも協力という言葉でくくられるからおもしろい。

宗教画とも見える絵は、手を使って書かれる。大きいものなら畳5枚はあろうか。絵には悪魔や妖精(たぶんそうだろう)が多数描かれている。その間に存在する、いや、させられる人間の表情は実に多彩だ。絵の世界を支配するカオス。その中で人は生きなければならない。ある意味、人間を描く新しい試みである。心の中を説明することは難しい。それを絵にしてメッセ-ジを表出するすごみさえ感じる。美大不合格のまま、アルバイトをしながら自分を信じて絵を描き続けられたそのパワ-がすごい。

きばっど 漫画も昭和の文化 R3.1.21

なぜか、ポ-の一族の絵を見に行った。吸血鬼の話なのだが、萩尾 望都さんの手にかかると美しい漫画になる。思えば、漫画こそ昭和の文化といえる。エドガ-とアランという美少年は吸血鬼だから、死なない、年をとらないから、同じ姿でいろいろな時代に出現する。年表でいうと200年くらいである。二人を取り上げた短編、長編あわせて、数多くの作品が存在する。この漫画のファンは40代以上であるが、なかなかどうして時代をこえる魅力がある。

「鬼滅の刃」のヒットで漫画アニメがブ-ムである。なめらかな動きやカメラワ-クで見る人の心をつかんで離さない。ところが、このアニメには紙芝居的な要素がある。静止画に近い場面があちこちに存在する。余計なものを見せない工夫だ。多くの人が一斉にしゃべるという場面が少ない。必要な人に必要なだけ、しゃべらせてメッセ-ジを確実に伝える。初期のアニメは背景もなく、人物のみだった。しゃべらせることも一苦労だったに違いない。そんなレトロ感を鬼滅がもっているのが不思議だし、それも人気の秘密のような気がする。

鉄腕アトムと同じころ、エイトマンという漫画があった。東幸太郎という探偵が事件に巻き込まれて死に、サイボ-グとして復活する。体に原子力を作り出す装置を入れて、音速と同じ速さで走れるという設定である。このエイトマンの走りは今の子供に見せたらなんといわれるだろうか。上半身のポ-ズは固まったまま、走る足は目に留まらないので、直線が引かれている。それを補うかのように「走れエイトマン、風よりも速く…」とテ-マが流れる。その曲を聴くたびに、速く走る彼を目の前に見た気になった。そして、走った後には、必ず、原子力装置を冷却する必要性で彼はたばこを吸う。説明ではこのタバコは原子炉を冷却する薬剤となっていた。このかっこよい休憩を子供たちはタバコチョコでマネしたものだ。少年たちはタバコをふかすカッコよさを学んだ。

漫画の神様、手塚さんの遺伝子は数々の漫画家を生んだ、令和の「鬼滅の刃」も「鉄腕アトム」がなければ存在しなかった。漫画が生まれ、世界へと広まり、日本の文化の一つとなった。このことに昭和のすばらしさを主張したい。昭和は混とんとした時代であった。だからこそ、そこに多くの文化が生まれた。カオスには何かが生まれる可能性が高い。コロナの時代もその意味では実に可能性に満ち溢れた時代だ。よいとか、悪いとかの基準をこえる生き残るための知恵の結晶がいろいろと出てくる。漫画のヒットはレコ大や映画収入にも跳ね返っている。この時代をうまくとらえたプロデュ-スの成功例である。メディア同士のよさのミックス、つまりは、掛け算型の効果である。

そもそも道というのは歩く人が多くなれば道になる。はじめに何人をそこに歩かせられるかということが大切だといえる。魯迅の「故郷」の最期の一文の答えもここにあるようだ。

きばっど「鬼滅の刃」R3.1.18

コロナ時代になぜか「鬼滅の刃」というアニメが流行した。コンビニもどこもかしこもこのグッズがあふれ、いつのまにか完売した。ここまで流行する、その秘密を考えてみた。まずは、敵となる鬼がめちゃくちゃ強い。ふつうはヒ-ロ-が必ず勝つ構図で物語が進むので、結末は予想がつく。安心してみることができる。鬼を退治してめでたしめでたしである。ところが、このアニメの鬼はめっぽう強く、主人公たちは苦戦して、たまには負けて命も危ない。どうにか勝ったにしても相打ちに近いような勝ち方にしかならない。戦う度に満身創痍なのである。「強くならないといけない」という課題をいやでも意識させられる話の展開なのである。今までのアニメと確かに違う。

 主な登場人物の4名には共通点がある。竈門炭治郎(カマドタンジロウ) 、妹の竈門禰豆子(カマドネズコ) 、鬼滅隊の同期 -我妻善逸(アガツマゼンエツ)  -嘴平伊之助(ハシビライノスケ) とやっと読めそうな難しい漢字プラス濁音である。このネーミングセンスは抜群で、

子供から大人まで覚えさせてしまうところがすごい。読めそうで読めない漢字こそ、ロマンにあふれるのか、キラキラネ-ムばりで注意を引くのに十分である。

また、近頃のアニメには珍しい紙芝居的な要素をもつことに注目したい。見せるためにぎりぎりまで動きを削ぎ落とす。つまり、捨てる論理で描かれている技法がすごい。今までのアニメが背景や小道具を含めて詳細に描くという流れから逸脱している。別れ場面で、遠く去っていく人物の後ろ姿は静止画並みの少ない動きで描かれている。わずかに足が動き、そのまま背景の中に消えていく。その静止画と対比されるのが、戦闘場面である。鬼との闘いシ-ンはすごい。迫力満点である。カット数も半端ないが、視点変化が激しく、臨場感は半端ない。敵と味方と視点が入り乱れる。また、戦闘シ-ンの中にうまく、過去の思い出や幻想までが書き足されていく。情報としてはやや多すぎる感じがするが、ここも受ける材料になっている。鬼になる運命も解そこから放される安堵感までもが実にわかりやすく、盛り込まれている。鬼の運命に共感できる炭治郎には鬼を殺すというより、その運命から開放していくような感じさえある。妹が鬼になっていることで、彼には心から鬼をにくめないのではないだろうか。鬼を滅ぼしながら、同時に救おうとする構図がある。

次に漫画らしいかわいい描き方が随所に出てくる。あれほど勇敢に戦うヒ-ロ-たちの目が点になったりするのは笑えるし、かわいい。「柱」と呼ばれ近づきがたい凜々しいキャラが笑いを誘うような描き方に突然変わる。この変わり身のおもしろさも人気の秘密だと思う。この顔だけ見たら、残酷な戦闘シ-ンの中の主人公とは絶対に思えない。

日本のオニという概念は、「姿、形のない恐ろしいもの」である。それに漢字の「鬼」があてられた。心にすむオニとか、オニの面とか、人がそうなるのではないかという恐ろしさが言葉的に存在するのを感じる。もともと人だから、そんなオニを「殺す」でなく、「滅す」という願いのような気持ちがわかる。コロナのおかげでたくさんのオニが日本中にあふれている。炭治郎たちの出現が待たれる。コロナさえなければオニになることもなかったと考えると悲しい限りだ。

きばっど コロナくんさよなら R3.1.16

今年はコロナくんとつきあわないといけない一年だった。逃げようにも逃げ場がなく、正体がよくわからない彼につけねらわれた。3月の初対面では、その恐ろしさからすぐに休校になったり、卒業式には歌もなく、時間短縮と大騒ぎになった。そして、とうとう「来賓にもご遠慮いただき…」と来賓席もなくなった。年度が替わり、「三密を避ける」ように言われ、保護者のみの参列という入学式からスタートした。歓迎会はもちろん、密となる会は例外なくすべてなくなった。新入生がマスクをしているので、名前も覚えられない。どんな声かもわからない。5月の保護者のPTA総会までも紙面開催となった。生徒も保護者も覚えられない新学期だった。

 コロナくんはどこからともなくやってくるという話が広がった。遠足や修学旅行にバスで行くと危ないと言われ、中止や延期になった。日本中が毎日、王冠に似たコロナくんの映像を何度も見せられた。6月から7月にかけての対外試合や遠征、練習試合もなくなった。勉強も対面授業がだめで、オンラインやズ-ム授業というものが始まった。中国はじまり?のコロナくんは、1学期を中心に日本中に恐怖を植え付けてどこかへ去っていった。

 夏休み前に鹿児島でもクラスタ-が発生した。天文館にいけない日々がスタ-トした。今度のコロナくんは鹿児島のいろいろな所に姿を現した。どこもかしこもコロナくんだらけでないかとだれもが心配になった。とうとう6月末予定の研修旅行も2学期に移動することになった。生徒も教師も県外に行く度に健康観察や隔離生活が必要となり、心配だけが募った。帰省できない寂しさに初めての寮生活の生徒たちは押しつぶれそうになった。1学期から夏休み、2学期初め、コロナくんはあちこちで大暴れ、みんなの心をずたずたにした。報道される数字に心を痛める、先の見えないがまんの日々が続いた。

研修旅行の10月末実施は至難の業だった。何しろ毎日、全国で感染者数が増え、流行、注意地域に目的地の北海道が入るのも時間の問題だった。計画では東京ディズニ-も予定していたが、これをあきらめ、北海道だけで実施することにした。旅行業者と連携して、当日の感染状況を把握し、訪問先や研修場所を変更することにした。コロナくんの脇の下をすりぬけて、北海道でのファ-ムスティを実現できた。旅費が安くなるなどのGotoトラベルの恩恵を受けたのにはびっくりした。中学体育コ-スも大阪近辺のサッカ-、野球観戦をあきらめ、熊本、長崎に変更しての実施になった。キャンセルがあいつぐ中で、思いがけず、立派なホテルに宿泊できたと聞いた。県内実施とした学校も多かった。

 やがて令和3年がやってくる。新しい生活様式は定着し、感染しやすい5つの場所への注意が喚起されている。ここまでで、人が「距離」にいかに左右されるかということがわかった。マスクで顔が見えないと気を使わなくて済むという人もいる。しかし、知り合いがまったくいない世界に暮らすようで、寂しい。足型の絵に誘導され、いやでもディスタンスを守らされる。「ふれあい」の歌詞ではないが、「コロナくんに出会う度に大切なあの人を思い出す。」この1年のコロナとのつきあいで、一人では生きていけないこともよく分かった。なにげない心のふれあいがほしい今、そろそろ、コロナくんとさよならしたい。

きばっど 生徒への語り方3 R3.1.15

生徒への語りのかまえづくりが生徒指導の話になって終わってしまったので、少し視点を変えて語り直したい。生徒指導ではこんな語りがよいと話は進んだのだが、授業場面ではこう語りたいと、キ-ワ-ドでの語りおすすめしたい。

キ-ワ-ドでの語りというイメ-ジをつかむ話から切り出したい。移動する乗り物の中で、ふと見上げると、液晶パネルに情報が流されていることがある。

12文字から60文字の間で流される情報は、キ-ワ-ドの連続だといってもよい。かねてからキ-ワ-ドに注意して聞いたり、書いたりが要求される。語る方も、聞く方もこのキ-ワ-ドを外して理解することにはならない。つまり、常識として使う言葉で、理解がぶれない言葉が使用されている。

もし、この情報が理解できないとすれば、現在の日本の常識から取り残されていると考えても良い。これらの言葉は、学校や家庭で使われなくてはならない。新しい知識の獲得が自分でなされるようにしておくことが必要だ。また、限られた時間でどれだけのものを聞くことができるのか、理解できるのかの力も向上させなければならない。

鹿児島中央から乗車し、ハウステンボスに行くとすれば、途中の乗り換え駅で下車する必要がある。駅名と所要時間の情報をどう活用するのか、朝食を食べてないとすれば、弁当を買えるかどうかを判断することにもなる。到着時間だけでなく、発着時間も調べたい。スマホのどんな機能を使うとよいかとなる。天気が怪しげなら、お天気アプリの出番である。キ-ワ-ドで聞き、新たな課題解決にむけて知識を統合する。まさに生きる力である。予算が1000円しかないと仮定すれば、立ち食いうどんですますのか、おにぎりとお茶の昼食にするのかは到着駅の様子を次第だ。詳しく調べたい。快適な旅を楽しむためには、一つの情報に重ね合わせていく部分と広げていく部分が必要なようだ。

授業の中に取り出すキ-ワ-ドにもこんな作用があるものがよい。その言葉をきっかけに無数の関係が形成され、新たな課題までも導き出されていく。数学の展開や分解ではないが、取り上げたキ-ワ-ドがこんな形に展開されていくことを見せると生徒も興味・関心が高まる。自分たちでもやってみたくなる。キ-ワ-ドで語ることはそんな意味でも重要だ。

先生は世の中を知らないので、「甘い」と言われる。夢や希望を語る人が甘くなくてどうする。世の中を知らないから言えるという話も否定はしない。学校は未来への適応と創造を任されている。だから、創造を考えて、学校は甘い。創造はまちがいから始まる。失敗から学ぶことは、偶然できた成功よりも多い。夢や希望のない未来にだれがあこがれようか。未来を見たいと思うなら、失敗に強くなることだ。失敗なんか乗り越えていけ。失敗から学べ。