きばっど レジリエンス R3.2.25

この言葉の意味は、困難な状況から立ち直ること、形が変わってしまったものを元通りにすることである。この言葉は昨年、次のような記事で有名になった。宇宙飛行士の野口聡一さん(55)が10月31日に国際宇宙ステーションに向かうのを前に記者会見し、搭乗する機体に「レジリエンス」と名付けたことを明らかにした。「困難から回復する力」等の意味があり、新型コロナウイルスで苦しむ世界が元に戻るための力になりたいとの思いを込め、搭乗員全員で相談して決めたという話だった。

 何を元通りにしたいのか、何を回復させたいのか。考えてみると、コロナのおかげで、人と簡単に会えなくなった。心の距離が本当にわからなくなった。少なくともこの部分だけは元通りにしたい。行事でも、今まで通用していたことができなくなった。「時間が長くなるので必要最低限とする」を理由に、感謝のことばも言わなくて良いとされた。儀式の中の来賓あいさつは本当にいらないのだろうか。無用の用の値踏みをしないままに、すべてが省略された。体験的な行事が減った。経験値の少ない世代が誕生することになる。

 今年はあちこちで新一年生パニックが起こりそうだ。津波的な被害を受けると、学校が崩壊する。高さは10メ-トルになるのか、それ以上なのかはわからないが、「体験不足からわからない、知らない」の津波には、それぞれで連携して受け入れ準備を整えたい。この世代の関わる結果に今後も大きく影響するだろう。因があり、縁があり、果があるという生成の仕組みで、因となる出会いが極端に制限され、当然、育てるべき縁も減少した。結果が変わるはずだ。その結果が原因となり、次が始まるとすれば、さらに結果は違ってくる。

 よい因を作り出すのに貢献できるのは多様性である。強靱性、復活力があれば、レジリエンスできる。このレジリエンスは物理学で使われた言葉でもある。ぱんぱんになった風船を押すと、その部分はへこむが、その部分を押し返して、もとに戻そうとする力が働く。この押し返す力、回復しようとする力のイメ-ジである。一見、因がなくなって見えるが、逆になくなることが因になっているようだ。コロナ禍中、行事や学校生活を成し遂げた経験にこの力を感じる。学校、保護者、生徒、旅行業者の連携があり、無事に成し遂げられた研修旅行、部活動の遠征である。そこにはしなやかに対応する力を感じる。

現在、世界のだれしもが苦境にあることは変わりない。だからこそ、それぞれで知恵と工夫を出し合って、生きていく。回復する力は同じようで違う。回復する力には新しい可能性があってよい。押し返すだけでなく、新要素のある、押し返す力になってほしい。経験値さえ補えれば、可能性を抑える要素はない。

きばっど 郵便局での発見 R3.2.20

みなさんは切手のデザインがおもしろいのにお気づきだろうか。印刷技術の格段の進歩は実におもしろい切手を作り出している。絵本、食材、マンガ、観光場所などきりがない。「ム-ミン」はもちろん絵本「金魚逃げた」まで本当に楽しい切手がそろっている。有名なアニメとのコラボは何も郵便局でなく、マクドナルドやロ-ソン、シマムラと企業名も次々に出てくる。一つのものでなく、複数がミックスされたおもしろさがある。これを見ていると、共通テストに出ていた問題にあるミックスやコラボにまで考えがたどり着く。その教科単体の発想で解決できない、解決しにくい出題の存在を感じる。その意味では、今回の共通テスト攻略にはかなり感度のよいアンテナの必要性を感じてしまう。

社会にあった「天橋立」はブラタモリの正月特集で取り上げられていた。「観光地としての天の橋立を訪問するのに便利である」と、「古代の海上輸送を中心とした物流や漁業で必要な港に近い」は、時代による必要性の変化である。過去の中心地は、国分寺の跡もある北側(橋立の根?)である。ところが、京都からの観光客を考えて作られた駅は南側(橋立の先端)である。駅から歩いて橋立まで行く。橋立に立ちたいので途中に橋もかけられる。設問の中にあった「観光を考える」は、現在の観光立国、日本にはタイムリ-な発問である。

国語の問題は妖怪に関する考え方の変遷を縦糸に、人間との距離感、あるいは人間という存在を横糸に書かれた随筆が出題された。ゲゲゲの鬼太郎や妖怪ウオッチなどに出てくる妖怪は、新しいとらえの妖怪である。身近になりすぎて、かわいい。ポケモンもだが、これらは人間化していく者なのかもしれない。その意味では妖怪よりも人間が怖い。いつ人間でなくなるのだろうか。だれにもわからないから怖い。もう、すでになくなくっているのかもしれない。 国語の「孟子」はマンガでもよく見る一節である。「おや、あれっ」と思ったら、情報ソ-スにとらわれず、マイ知識に変換できる柔軟さが大切である。課題意識をもち、生活していると、かなり取得することができる。つまり、役立つ知識獲得のチャンスは、今も昔も日常にある。朝ドラも、大河も、周辺知識があれば、本題に重ねて見れるとその分おもしろさは増す。料理を食べるのも、その制作過程や素材の知識があると味も違うようだ。食リポのうまさは食べた料理の数に比例して当然だ。食を楽しむと集めた知識の総量分はうまさに変換されると推測できる。さて、朝ドラのちょっちゃんはオロナイン軟膏の宣伝看板で見た浪花千栄子さんである。また、大河の「麒麟が来る」には、安土城の雰囲気を出すために240畳といわれた畳の間もセットされた。天皇が月見と称して光秀と語る場面には、月を映す小道具として「角盥(つのだらい)」が準備されていた。これらのトリビアを知ると、本編が何倍にも楽しめるから不思議だ。

きばっど 数学の夢 R3.2.12

ケ-キの8等分は本当に簡単なのか。ケ-キの上には多様なものがのっている。イチゴやリンゴからウエハスやチョコレ-ト、食べられないけどサンタさんやヒ-ロ-人形もある。これらも含めると、8等分はなかなか難しい。

同じように、イコ-ルの左辺と右辺は「同じ」と習ったのだが、やはり1+1=2と2-1=1は同じに見えない。計算すれば同じだろうが、計算しない状態ではまったく別物だ。仏教では、物事の成立は、まず「因」があり、「縁」があり、「果」として定まると説明されている。「縁」とは関わりである。結果はこの縁によって決まる。無数の縁の関わりによって、結果は変わってくる。縁の関わり次第で、まったく、別物になる。「直線に幅はない」とも習ったが、交渉ごとで「よく線を引く」と、人によってはこの線に幅のある人がいる。どこまでよいのか。悪いのか。まるで一休さんの「この橋渡るな」の世界である。幅がないのにはずなのに、端を渡れる直線があるからおもしろい。

 数学の数の世界から図形の世界まで、紙にメモらずに頭の中でくるくるとまわすと時間が経つのを忘れる。ある直線に垂直な線を引く時、その直線上に中心をもつ円(無数にかけるが…)の2つが交わる点を結んでできる直線は、ある直線の垂線となる。これを平面でなく立体的に考えると、無数にかける直線は円に見えてくる。実におもしろい。 0という存在も考えれば考えるほどおもしろい。0があるとそこに数字を入れられない。1と10と100と区別ができる。01、001、0001と表す数を創造したら、これは間違うなあ、わかりにくい。だから、小数点かと納得した。10000000000は書くと長いなあ、どうか表現するかと考えるが、0が並びすぎてわかりにくい。だから、指数があるのかと納得した。数学は本当によくできている。いろいろと考えていくと、実におもしろい。数学者は、数の謎を分かりやすく、みんなに語ることのできる人たちだ。しかし、ケ-キカットや端を渡る話ではないが、不確定、数値化ができない要素があると一般化、法則化できない。単純にすれば美しくなる。そこには何も入らないの「0」が数学のすべてを象徴している。さて、頭がさえて眠れない冬の日はふとんの中で考えてみるのも楽しい。立体をカッティングしたり、グラフを書いてみたりと頭の中なら定規もコンパスも、ケシゴムもいらない。ケ-キは難しかったが、リンゴならできる、みかんも大丈夫そうだ。枝豆は数えればOKだが、こんな話を思い出した。「豆を食べたい」と子供たちが母親におねだりしたら、手ですくって、姉と弟の手のひらにのせてくれた。「お姉ちゃんが多い、あんたが多い」とケンカした二人に母親は「数えてごらん」と言った。豆の数はちょうど同じだった。母の愛が数学的にも証明されたこの話の作者は坪井栄さんだったと思う。

きばっど まかない料理 R3.2.10

昼ごはんを取り上げた番組で見た食品会社のまかないの話である。宮崎出身の若者が今年初めてまかないに取り組む。もちろん、ふるさとメシということでチキン南蛮である。解説は、まかないこそが料理の修行と語り、仕入れから調理、盛り付けまで、120人分という半端ない人数に取り組んでいく様子を紹介する。南蛮の鶏肉は下ごしらえが大切らしい(あのジュ-シさはここにあったのか)。以前のまかないの反省にたち、下ごしらえやソ-スに改良を加えて、今日の献立を作り上げていく。まかないに全力で取り組むことに感心する。そういう場で先輩たちから評価してもらえることもすばらしい。常連さんはそのチャレンジや粗削りの魅力を知るからこそ、まかないメシを注文するのだろう。

さて、教育現場で「まかない」にあたるものは何だろうか。学校では雑務なんて呼ばれるものの中にあるようだ。教師は授業だけが仕事と思われがちだが、学校全体が教育の場と考えると、見る目を養ったり、教室環境を整えたり、保護者と語ったりとムダなものは何一つない。教師の腕をあげるなら、まず、生徒を見る目を鍛えることである。この目には複数の視点が必要だ。デ-タとして見るなら、提出物を忘れない子を把握するより、忘れる子を、その回数を把握しておきたい。また、そのときの表情も把握したい。生徒の褒められて喜ぶときをおぼえておくと、褒めるタイミングもまちがいなくわかるはずだ。

転入者や初任者がまず任される清掃場所は、トイレや焼却炉(もうありません)などである。学校の一番汚い場所を担当すると、その学校のことがよくわかる。「ゴミの分別ができない」、「ゴミを持ってくる時間が遅い」と、学級や作業担当区域の生徒や教師の意識がよくわかる。トイレ掃除も同じだ。「水を流して、はい終わり」の掃除をする生徒たちは、試験の取組も甘い。点数を取れの上げろと言われても、清掃の態度と同じで努力しているはずはない。これらの場所は学校の本音が現れる場所なのである。見る目を鍛える絶好の雑務だ。 修学旅行は学級を幾つかのグル-プに編成して、実施される。それぞれで係が割り振られ、教師にも担当が決まる。なぜか自分はレク係が多かった。この係は企画や進行と雑務そのものであった。会順、マイク位置、生徒の並びと考えることは多い。その上、生徒たちの要望は無理難題、教師のしめつけも厳しく、両者の言い分をうまくまとめるのも一苦労だ。夜の部の本番を盛り上げるために知恵を絞る。この経験は授業、学校行事でも活きるようになるから不思議である。「若いうちの苦労は自分から…」は「まかない」を考えいくうちに少しわかってきた。自分の仕事に何がどう役に立つのかはだれにもわからない。だからこそ、経験は貴重である。与えられた雑務を全力でやってみて損はない。やってみたことはなぜかあとで役に立つことが多い。

きばっど やり抜く力 R3.2.1

令和3年の学園スロ-ガンは「やり抜く力」であった。そこで、「やる気、やること、やり抜く、やりとげる」の流れで再度、考えてみた。動機があり、対象がある。そして、行動が起こり、結果が出てくる。この構造を大事にしたい。「何をやり抜くのか」と人には動機が必要だ。お金や名誉もだが、教師は、教育者として果たすべき使命がある。教師になろうと思い立ち、先生と呼ばれた人なら、生徒のためにがんばろうと思うのは当たり前である。やり抜く対象は、「生徒のためにできることは何か」である。将来役に立つ力をつけるには?ととことん考えてみたい。「生徒の面倒をとことんみる」には大いに賛成である。

しかし、どんな目標でも「やり抜く」は大変だ。この継続が難しい。なかなできないから「3日坊主」なんて言葉もできるし、よく使われる。人の世は継続できないことが多い。そこで、少なくとも「結果として変わるまで継続できる」であれば、当然、成功なのだろう。変われなかったら、変わらなかったら失敗だと考えるのなら、簡単な理屈で、「成功するまで継続すればよい」である。

成功者に共通する資質は、「あきらめない」である。あきらめなかったら成功したとなるようだ。確かに失敗するたびに、人はいろいろなことを学ぶ。失敗を続けると、成功するのが近づいてくるような気がする。楽観的すぎるだろうか。自分との距離がつかめない時は、全力でぶつかってとりあえず失敗してみるのもよい。まぐれで成功すると、そこで達成された気になる。これでは、自分のものになっているとはいいがたい。なら失敗もよしとしたい。

 お金は使うとなくなるが、学んだ知識や身につけた技術は決してなくならない。使えば使うほど改善されてうまくなり、確かになり、自分のものとして身につく、いろいろな場面でも使える。その意味では一生の財産である。また、求めて学んだ使える知識は、次の使える学びを創造する。有効な学びを知ると、もっと深く、もっと広く学びたくなる。名人や達人には継続が欠かせない。  「やりぬく力を生徒たちにもつけてください」と年頭の講話であったが、やはり、こればかりは「隗より始めよ」で教師がやってみせなくてはなるまい。教えることは学ぶこと、学ぶことは教えることで学ぶ力と同じだ。やりぬく力はどんな力とコラボさせるとよいのか。やり抜く力は、成功する人のコンピテンシ-(行動特性)である。キャパが足りないというが、その前の意欲や継続などのメンタル部分はさらに大切である。やり抜く力をつけるには、成功体験の積み重ねや目的意識の明確さなど、当たり前だがそこを避けては通れない。生徒を正しく評価できてこそ、この力を育てられるに違いない。まずは、成功体験をイメ-ジさせておくことだ。また、取組や過程をほめることは失敗にくじけないために必要だ。それは成功するまで手を変え、品を変えてでよいと思う。

きばっど 南溟館の展覧会 R3.1.28

美術館の企画展には突然行ってみたくなる。今回も新聞を見てそぞろ神がついたように枕崎に行ってしまった。スズキコ-ジさんの絵を見たくなった。枕崎駅の後方にある片平公園の高台に作られた美術館はユニークな形をした建物だった。眺めの良さから南溟(みなみのうみ)の名が与えられたのだろうと想像がつく。その中でスズキコージさんの大魔法画展があった。原色と不思議な構図は「リメンバ-ミ-」の映画の世界を思い出させた。死者の日を描いた映画と同じで、構図に出てくる人も魔物(たぶん)も造形や色彩は実に独特である。

作者の世界を理解しようとするのはなかなか難しい。絵本となった原画を見ながら驚きの連続である。絵本と言いながら、訴える力が半端ない。ぐいぐい心に迫る。抽象画ではない。心象画だと思う。感じるままを描く、心の中を描くという世界にふれたような気がする。心のありのままが描かれるので、感じさせる力があるのだろうか。広島の原爆ド-ムの由来を取り上げた「ドームがたり」はとても興味深かった。産業物産館として建てられ、活用されていた建物の擬人的視点から書かれている。彼は原爆によって自分の呼び名が無理やり変わった無念さを強く訴えている。彼なりに戦争が起こったことを考えている。平和な時代が続けば、そんな名前で呼ばれることはなかったという悔しさにあふれている。原爆ド-ムの語りを絵と文で紹介して、平和を願う気持ちに共感させている。証人が語るために説得力は半端ない。

帰りはマグロ公社によってみた。マグロのモニュメントが入口に飾られ、公社の存在は一目でわかる。象徴性の高い南溟館の空飛ぶ魚のモニュメントとは大違いだ。また、コ-ジの絵にはシロナガスの亡霊が漂うものもあった。同じ魚でもこんなに描き方が違う。考えてみると、同じ文章を読んでも感じ方が違う。それなのに、図や写真を見せて共通基盤を作ったつもりになるのはいかがなものか。教科書で教えるべきは共通した感じ方なのかもしれない。しかし、感じ方にもお国柄が出る。「スイミ-」の仲間は同じ大きさの小魚であるが、「大きなかぶ」はバラバラの力である。大きなかぶはロシアの童話であるように、マト-リシュカのように大から小の力を羅列している。しかし、どちらも協力という言葉でくくられるからおもしろい。

宗教画とも見える絵は、手を使って書かれる。大きいものなら畳5枚はあろうか。絵には悪魔や妖精(たぶんそうだろう)が多数描かれている。その間に存在する、いや、させられる人間の表情は実に多彩だ。絵の世界を支配するカオス。その中で人は生きなければならない。ある意味、人間を描く新しい試みである。心の中を説明することは難しい。それを絵にしてメッセ-ジを表出するすごみさえ感じる。美大不合格のまま、アルバイトをしながら自分を信じて絵を描き続けられたそのパワ-がすごい。

きばっど 漫画も昭和の文化 R3.1.21

なぜか、ポ-の一族の絵を見に行った。吸血鬼の話なのだが、萩尾 望都さんの手にかかると美しい漫画になる。思えば、漫画こそ昭和の文化といえる。エドガ-とアランという美少年は吸血鬼だから、死なない、年をとらないから、同じ姿でいろいろな時代に出現する。年表でいうと200年くらいである。二人を取り上げた短編、長編あわせて、数多くの作品が存在する。この漫画のファンは40代以上であるが、なかなかどうして時代をこえる魅力がある。

「鬼滅の刃」のヒットで漫画アニメがブ-ムである。なめらかな動きやカメラワ-クで見る人の心をつかんで離さない。ところが、このアニメには紙芝居的な要素がある。静止画に近い場面があちこちに存在する。余計なものを見せない工夫だ。多くの人が一斉にしゃべるという場面が少ない。必要な人に必要なだけ、しゃべらせてメッセ-ジを確実に伝える。初期のアニメは背景もなく、人物のみだった。しゃべらせることも一苦労だったに違いない。そんなレトロ感を鬼滅がもっているのが不思議だし、それも人気の秘密のような気がする。

鉄腕アトムと同じころ、エイトマンという漫画があった。東幸太郎という探偵が事件に巻き込まれて死に、サイボ-グとして復活する。体に原子力を作り出す装置を入れて、音速と同じ速さで走れるという設定である。このエイトマンの走りは今の子供に見せたらなんといわれるだろうか。上半身のポ-ズは固まったまま、走る足は目に留まらないので、直線が引かれている。それを補うかのように「走れエイトマン、風よりも速く…」とテ-マが流れる。その曲を聴くたびに、速く走る彼を目の前に見た気になった。そして、走った後には、必ず、原子力装置を冷却する必要性で彼はたばこを吸う。説明ではこのタバコは原子炉を冷却する薬剤となっていた。このかっこよい休憩を子供たちはタバコチョコでマネしたものだ。少年たちはタバコをふかすカッコよさを学んだ。

漫画の神様、手塚さんの遺伝子は数々の漫画家を生んだ、令和の「鬼滅の刃」も「鉄腕アトム」がなければ存在しなかった。漫画が生まれ、世界へと広まり、日本の文化の一つとなった。このことに昭和のすばらしさを主張したい。昭和は混とんとした時代であった。だからこそ、そこに多くの文化が生まれた。カオスには何かが生まれる可能性が高い。コロナの時代もその意味では実に可能性に満ち溢れた時代だ。よいとか、悪いとかの基準をこえる生き残るための知恵の結晶がいろいろと出てくる。漫画のヒットはレコ大や映画収入にも跳ね返っている。この時代をうまくとらえたプロデュ-スの成功例である。メディア同士のよさのミックス、つまりは、掛け算型の効果である。

そもそも道というのは歩く人が多くなれば道になる。はじめに何人をそこに歩かせられるかということが大切だといえる。魯迅の「故郷」の最期の一文の答えもここにあるようだ。

きばっど「鬼滅の刃」R3.1.18

コロナ時代になぜか「鬼滅の刃」というアニメが流行した。コンビニもどこもかしこもこのグッズがあふれ、いつのまにか完売した。ここまで流行する、その秘密を考えてみた。まずは、敵となる鬼がめちゃくちゃ強い。ふつうはヒ-ロ-が必ず勝つ構図で物語が進むので、結末は予想がつく。安心してみることができる。鬼を退治してめでたしめでたしである。ところが、このアニメの鬼はめっぽう強く、主人公たちは苦戦して、たまには負けて命も危ない。どうにか勝ったにしても相打ちに近いような勝ち方にしかならない。戦う度に満身創痍なのである。「強くならないといけない」という課題をいやでも意識させられる話の展開なのである。今までのアニメと確かに違う。

 主な登場人物の4名には共通点がある。竈門炭治郎(カマドタンジロウ) 、妹の竈門禰豆子(カマドネズコ) 、鬼滅隊の同期 -我妻善逸(アガツマゼンエツ)  -嘴平伊之助(ハシビライノスケ) とやっと読めそうな難しい漢字プラス濁音である。このネーミングセンスは抜群で、

子供から大人まで覚えさせてしまうところがすごい。読めそうで読めない漢字こそ、ロマンにあふれるのか、キラキラネ-ムばりで注意を引くのに十分である。

また、近頃のアニメには珍しい紙芝居的な要素をもつことに注目したい。見せるためにぎりぎりまで動きを削ぎ落とす。つまり、捨てる論理で描かれている技法がすごい。今までのアニメが背景や小道具を含めて詳細に描くという流れから逸脱している。別れ場面で、遠く去っていく人物の後ろ姿は静止画並みの少ない動きで描かれている。わずかに足が動き、そのまま背景の中に消えていく。その静止画と対比されるのが、戦闘場面である。鬼との闘いシ-ンはすごい。迫力満点である。カット数も半端ないが、視点変化が激しく、臨場感は半端ない。敵と味方と視点が入り乱れる。また、戦闘シ-ンの中にうまく、過去の思い出や幻想までが書き足されていく。情報としてはやや多すぎる感じがするが、ここも受ける材料になっている。鬼になる運命も解そこから放される安堵感までもが実にわかりやすく、盛り込まれている。鬼の運命に共感できる炭治郎には鬼を殺すというより、その運命から開放していくような感じさえある。妹が鬼になっていることで、彼には心から鬼をにくめないのではないだろうか。鬼を滅ぼしながら、同時に救おうとする構図がある。

次に漫画らしいかわいい描き方が随所に出てくる。あれほど勇敢に戦うヒ-ロ-たちの目が点になったりするのは笑えるし、かわいい。「柱」と呼ばれ近づきがたい凜々しいキャラが笑いを誘うような描き方に突然変わる。この変わり身のおもしろさも人気の秘密だと思う。この顔だけ見たら、残酷な戦闘シ-ンの中の主人公とは絶対に思えない。

日本のオニという概念は、「姿、形のない恐ろしいもの」である。それに漢字の「鬼」があてられた。心にすむオニとか、オニの面とか、人がそうなるのではないかという恐ろしさが言葉的に存在するのを感じる。もともと人だから、そんなオニを「殺す」でなく、「滅す」という願いのような気持ちがわかる。コロナのおかげでたくさんのオニが日本中にあふれている。炭治郎たちの出現が待たれる。コロナさえなければオニになることもなかったと考えると悲しい限りだ。

きばっど コロナくんさよなら R3.1.16

今年はコロナくんとつきあわないといけない一年だった。逃げようにも逃げ場がなく、正体がよくわからない彼につけねらわれた。3月の初対面では、その恐ろしさからすぐに休校になったり、卒業式には歌もなく、時間短縮と大騒ぎになった。そして、とうとう「来賓にもご遠慮いただき…」と来賓席もなくなった。年度が替わり、「三密を避ける」ように言われ、保護者のみの参列という入学式からスタートした。歓迎会はもちろん、密となる会は例外なくすべてなくなった。新入生がマスクをしているので、名前も覚えられない。どんな声かもわからない。5月の保護者のPTA総会までも紙面開催となった。生徒も保護者も覚えられない新学期だった。

 コロナくんはどこからともなくやってくるという話が広がった。遠足や修学旅行にバスで行くと危ないと言われ、中止や延期になった。日本中が毎日、王冠に似たコロナくんの映像を何度も見せられた。6月から7月にかけての対外試合や遠征、練習試合もなくなった。勉強も対面授業がだめで、オンラインやズ-ム授業というものが始まった。中国はじまり?のコロナくんは、1学期を中心に日本中に恐怖を植え付けてどこかへ去っていった。

 夏休み前に鹿児島でもクラスタ-が発生した。天文館にいけない日々がスタ-トした。今度のコロナくんは鹿児島のいろいろな所に姿を現した。どこもかしこもコロナくんだらけでないかとだれもが心配になった。とうとう6月末予定の研修旅行も2学期に移動することになった。生徒も教師も県外に行く度に健康観察や隔離生活が必要となり、心配だけが募った。帰省できない寂しさに初めての寮生活の生徒たちは押しつぶれそうになった。1学期から夏休み、2学期初め、コロナくんはあちこちで大暴れ、みんなの心をずたずたにした。報道される数字に心を痛める、先の見えないがまんの日々が続いた。

研修旅行の10月末実施は至難の業だった。何しろ毎日、全国で感染者数が増え、流行、注意地域に目的地の北海道が入るのも時間の問題だった。計画では東京ディズニ-も予定していたが、これをあきらめ、北海道だけで実施することにした。旅行業者と連携して、当日の感染状況を把握し、訪問先や研修場所を変更することにした。コロナくんの脇の下をすりぬけて、北海道でのファ-ムスティを実現できた。旅費が安くなるなどのGotoトラベルの恩恵を受けたのにはびっくりした。中学体育コ-スも大阪近辺のサッカ-、野球観戦をあきらめ、熊本、長崎に変更しての実施になった。キャンセルがあいつぐ中で、思いがけず、立派なホテルに宿泊できたと聞いた。県内実施とした学校も多かった。

 やがて令和3年がやってくる。新しい生活様式は定着し、感染しやすい5つの場所への注意が喚起されている。ここまでで、人が「距離」にいかに左右されるかということがわかった。マスクで顔が見えないと気を使わなくて済むという人もいる。しかし、知り合いがまったくいない世界に暮らすようで、寂しい。足型の絵に誘導され、いやでもディスタンスを守らされる。「ふれあい」の歌詞ではないが、「コロナくんに出会う度に大切なあの人を思い出す。」この1年のコロナとのつきあいで、一人では生きていけないこともよく分かった。なにげない心のふれあいがほしい今、そろそろ、コロナくんとさよならしたい。

きばっど 生徒への語り方3 R3.1.15

生徒への語りのかまえづくりが生徒指導の話になって終わってしまったので、少し視点を変えて語り直したい。生徒指導ではこんな語りがよいと話は進んだのだが、授業場面ではこう語りたいと、キ-ワ-ドでの語りおすすめしたい。

キ-ワ-ドでの語りというイメ-ジをつかむ話から切り出したい。移動する乗り物の中で、ふと見上げると、液晶パネルに情報が流されていることがある。

12文字から60文字の間で流される情報は、キ-ワ-ドの連続だといってもよい。かねてからキ-ワ-ドに注意して聞いたり、書いたりが要求される。語る方も、聞く方もこのキ-ワ-ドを外して理解することにはならない。つまり、常識として使う言葉で、理解がぶれない言葉が使用されている。

もし、この情報が理解できないとすれば、現在の日本の常識から取り残されていると考えても良い。これらの言葉は、学校や家庭で使われなくてはならない。新しい知識の獲得が自分でなされるようにしておくことが必要だ。また、限られた時間でどれだけのものを聞くことができるのか、理解できるのかの力も向上させなければならない。

鹿児島中央から乗車し、ハウステンボスに行くとすれば、途中の乗り換え駅で下車する必要がある。駅名と所要時間の情報をどう活用するのか、朝食を食べてないとすれば、弁当を買えるかどうかを判断することにもなる。到着時間だけでなく、発着時間も調べたい。スマホのどんな機能を使うとよいかとなる。天気が怪しげなら、お天気アプリの出番である。キ-ワ-ドで聞き、新たな課題解決にむけて知識を統合する。まさに生きる力である。予算が1000円しかないと仮定すれば、立ち食いうどんですますのか、おにぎりとお茶の昼食にするのかは到着駅の様子を次第だ。詳しく調べたい。快適な旅を楽しむためには、一つの情報に重ね合わせていく部分と広げていく部分が必要なようだ。

授業の中に取り出すキ-ワ-ドにもこんな作用があるものがよい。その言葉をきっかけに無数の関係が形成され、新たな課題までも導き出されていく。数学の展開や分解ではないが、取り上げたキ-ワ-ドがこんな形に展開されていくことを見せると生徒も興味・関心が高まる。自分たちでもやってみたくなる。キ-ワ-ドで語ることはそんな意味でも重要だ。

先生は世の中を知らないので、「甘い」と言われる。夢や希望を語る人が甘くなくてどうする。世の中を知らないから言えるという話も否定はしない。学校は未来への適応と創造を任されている。だから、創造を考えて、学校は甘い。創造はまちがいから始まる。失敗から学ぶことは、偶然できた成功よりも多い。夢や希望のない未来にだれがあこがれようか。未来を見たいと思うなら、失敗に強くなることだ。失敗なんか乗り越えていけ。失敗から学べ。